2012/09/17

BCJカンタータ99

今日は、東京オペラシティにBCJ第99回定期演奏会。もちろん、バッハのカンタータ。

前半は197+197a。たぶん、最初は197aはやるつもりなかったのではと推察されるのですが、せっかくレコーディングするのだからぜひ本番でも、ということになったのでは。コンサートの終了時刻も、通常なら17:00ころなのが15分ほどオーバーでした。

それはともかく、2月以来久々の教会カンタータ。やっぱりいいなぁ~。暖かい古楽器の音色。繊細な表現。これがまさに日本のバッハ。特にチェロの通奏低音とフルートが何とも言えない。

残念ながら、この響きをヨーロッパ遠征では聞かせることができなかった。というのも、遠征メンバーを見ると、オケの主力メンバーが参加しておらず、いわば現地調達組(とはいっても日本人が多いのですが)で占められていたこと。とりわけ、BCJのオケの命ともいうべき鈴木秀美さんの不参加というのは、個人的にはとても残念。やはりこの通奏低音あってのBCJ。色々大人の事情はあるのでしょうけど、ファンとしてはぜひヨーロッパの人たちに聞いてほしかったです。一方で、寺神戸さんを中心としたヨーロッパ遠征メンバーの演奏を国内で聞けないというのもこれも残念。オケに関して言えば、BCJと名のつく団体が実際には二つあるようなもので、しかもその性格はずいぶん違うのでしょう。時々、ツアーの様子がYouTubeとかで見られるので、それをみるとなんとなくわかります。

いよいよカンタータ全曲演奏会もあと1回。アーノンクール、レオンハルトのカンタータ大全集が終わりを迎えてから約25年。再びあの時と同じ想いがめぐります。今日の解説を読むと、鈴木雅明さんがカンタータをやるきっかけになったのも、このTeldecの全集だそうです。まさか日本で古楽器によるバッハのカンタータ全曲演奏会が聞けるとは思ってもいませんでしたし、もう一組全集を買うことになるとは思ってもいませんでした。最終回は2月24日(東京)、定期演奏会第100回でもあります。心してその日を待とうと思います。

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2012/07/14

ヨハネに悩める18~第14曲ペテロの否認のまとめ

ペテロの苦悩のアリアの後は、コラールで第1部が締めくくられます。

このコラール、全部で3回登場します。その最初が第14曲。

主はペテロにそうしたようにわたしたちを召して悔い改めさせ、み顔をわたしたちに再び照らしたもう。それによってわたしたちは悔い改めることができる。とルターは教えます。「15」で紹介した部分の後で罪に対する恐怖と苦悩を感じるとき、わたしたちがとるべき態度として次のように述べます(オリブ山で ルターの「主の受難の説教」 石橋幸男訳聖文社)。

「わたしたちがとるべき態度は、まず第1に、神のみ前に自分を卑しくし、心から罪を告白して、「おお神よ、わたしはほんとうに、あわれなみじめな罪人です。あなたがそのお恵みと共にわたしから離れたもうなら、わたしはただ罪を犯すだけです。」

まさにこれは敬けんなペテロのことでもあり、わたしたちのことでもあります。あのペテロですら、イエスとちょっと離れただけでこんなにも弱くなって罪を犯してしまった。そしてまさか自分が罪を犯すとは思ってもおらず、安心しきっていた。まして、わたしたちならなおさら。だから常に見守っていてほしい、常にわたしたちとともにいてほしい。

「次に、神の言と約束にとどまって、「しかし、み子イエス・キリストのために、私にあわれみを垂れさせたまえ」と付け加えて言うことである。そして、魂が神の言で自らを慰め、み子のために神があわれみ深くありたもうと心から信頼するとき、苦悩は和らぎ、確かに慰めが与えられるのである。だから、ほんとうの完全な悔い改めとは、このことである。すなわち、罪におびやかされ、卑しくされて、信仰により主イエスとその苦難の中に慰めを見いだすことができる。」

14曲のコラール、そしてマタイの第39、40曲と、上記のルターの記述を照らし合わせてみると、その意味がより明確になるのではないかと思います。

バッハの和声付けも、こうした苦難と慰めというのを65の和音など不協和音を効果的に使いながら表現していると思います。

これで前半は終わります。いよいよイエスが裁判にかけられ処刑される場面に入ります。

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2012/07/10

ヨハネに悩める17~第13曲(2)二度と半音階と付点

前回は、歌詞の面から第13曲を考えてみました。今回はバッハの音楽の面から考えてみることにします。

楽譜を見ていて気がつくのは、二度でぶつかる不協和音、半音階、そして付点音符(付点8分音符と16分音符の組み合わせ)が多用されているということです。

付点音符といえば、軽快さを表す場合と、正反対にむち打ちとかいばら、とげが突き刺すとかいうことを言い表す場合とがあり、当然のことながらここでは後者の付点音符です。バロックの基本的な付点の弾き方というのはあるのですが、それとは違うレイヤーで弾き方が両者で全く異なるというのは当然のことです。重みのある鋭さとでもいいましょうか、ペテロの苦悩、重苦しい雰囲気も出さなければなりません。しかし、もたもたするような重さでではなく、鋭さも必要だと思います。もちろん、勇ましい音楽では決してないので(むしろ、ペテロの心の弱さを表現しなければならない)、そうならないよう気を付けなければならない。まさに音楽性とボウイング技術が試される付点音符です。

問題は、付点4分音符+8分音符及び4分音符+8分休符+8分音符という組み合わせのとき、8分音符を16分音符として弾くのか、8分音符としての音価を保つのかという点と、8分給付があるケースとないケースで弾き分けるべきなのか、両者は同じ意味なのかという点です。ここは解釈の分かれるところだと思いますが、8分音符は16分音符ほど短くはないが8分音符よりは短く(つまり前の音符または休符の音価を長めにとる)、8分休符の有無は明確に弾き分ける、というのが一つの解ではないかと私は考えています。

8分休符の有無を明確に弾き分けるというのは、私が実際にアンサンブルの中で弾いてみてそう思いました。8分休符の有無については、一見同じことを統一性がなく書かれているようにも見えるのですが(実際にそういうことは少なくない)、ことこの曲については、意識して書き分けたようにも思えますし、バッハは割と弾いてほしいようにきちっと各タイプの作曲家でもあるので、両者が同じことを言っていると決めつけるのは少々危険だと思ったことがきっかけですが、実際に和声を意識して弾いてみると、敢えて書き分けた意味が分かるような気がしたのです。2つの声部が音符の初めから2度でぶつかっているところと長い音符の途中で2度でぶつかるところでは、弾き方が違います。また、2度の不協和音をどの程度強調する(強くだけでなく長い時間意識させる)か、ということも意識して弾くと、ここは音価通り弾くべきか短めに切ってもいいかということもなんとなくわかります。

ベーレンライター版スコアをお持ちの方は、通奏低音パートに65という数字が書いてあるところの上声部パートに注目していただくとよいと思います。まず、冒頭2拍目に65と書いてあります。1stVnは、Eの4分音符前打音にDの2分音符です。前打音は4分音符ということでさほど短くありません。Dが出てくるのは2拍目の裏あたりでしょう。2ndVnはCisの付点四分音符です。65はこのDとCisが同時に鳴っている状態(バスのFisの6度と5度上)で、典型的な不協和音です。もし、ここで2ndVnが付点四分音符を四分音符分しか伸ばさなかったとしたら、DとCisが同時に鳴ることはありません。これでは意味がありません。

17小節にも似たようなところがありますが、ここはすでに歌が入っていてしかもPであることや、17小節の1拍目の四分音符はここから始まるフレーズの最初であるとともに、前奏の最後の音でもあるというようなこともあるのでしょう。ことさら弦楽器の2度を強調する必要がなかったため、4分音符+8分休符になっているのではないかと思います。

実際には和声だけでなく、他の声部や歌との関係もあって一筋縄にはいかないのですが、書いてある通りの音価で弾く効果というのは確実にあるような気がします。

付点というと、ボウイングの都合(弓を元の方に戻す)で長い音が短くなってしまうということもあるのですが、そこは、後ろの短い音は弓の先でアップで弾き、その勢いで元の方に戻るとか、何度か細かい付点音符を弾く中で徐々に元の方に戻していくとかいうテクニックを使って、最初の長い音をできる限り音価一杯伸ばすという工夫が必要になるでしょう。また、付点四分音符+8分音符の組み合わせと付点8分音符+16分音符の組み合わせでは、8分音符より16分音符の方がより短く鋭くなります。8分音符は弓の先でもいいですが16分音符を弾く時には弓が元にもどるようにしたいものです。この付点8分音符の弾き方も難しいのですが。。

さらに2度で「ぶつかる」音は、基本的にはノンヴィブラートで弾きたいものです。せっかくの不協和音なので、ヴィブラートをかけてもやもやにしないのがよいかと。でもぶつけた後は軽くヴィブラートでもよいかもしれません。

このように、この曲は2度を中心とした不協和音というのがペテロの苦悩であり、付点が痛みを表すということになると思うので、上述したようなことは結構こだわってもよいのではないかと個人的には思います。

これとは別に、バスを見ると、例によって冒頭から下行する半音階が登場します。これも、ペテロの苦悩、不安などを表す常套手段です。そして、2nd Vnもよく見ると、バスと並行に下行する半音階になっていることがわかります。どうしても付点音符に目を奪われがちですが、この半音階及び不協和音に注目すると、付点四分音符以上の長い音をどう弾くかが結構大事なのではないか、ということを考えるようになります。

私としては、例のホセア10.8を引用した歌詞の場面、47-59小節がとても不思議な感じがします。不協和音オンパレードなのですが、長調になりかけのような感じで何か美しい。「山よ、丘よ」と願う時の心境とはどんなものなのでしょうか。。。

2ndVnを弾いていると、旋律っぽいのが少ない代わりに、不協和音をはじめとする和音の性格付けに重要な役割を果たしたりできるのがとても楽しく、やりがいを感じます。

まだまだ語るべき点は多いと思うのですが、次のコラールに進むことにします。(つづく)

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2012/07/08

ヨハネに悩める16~第13曲(1)ペテロの嘆き

ペテロの否認のアリア、ヨハネとマタイとでは、弦楽器の伴奏という共通点はあるものの、その雰囲気は全く異なります。ヨハネは「ああ、わが想いよ!」から始まり、マタイは「あわれみたまえ、主よ!」から始まる。両者は全く別のことを言っているというよりは、一連の流れで考えるとわかりやすいのではないかと思っています。苦難があって祈りがある。

そこで、罪、そして苦難と悔い改めというところからこのアリアの歌詞と音楽を考えてみたいと思います。

私は、ルターの「贖宥の効力についての討論の解説」というのに注目しました。ルターの宗教改革といえば教科書などにも必ず出てくるいわゆる「贖宥状(免罪符)」の効力に疑問を持つ考え方について述べたもので、「95ヶ条の論題」ともいわれる有名な文書です。単に贖宥状や教皇の権威を否定するのではなく、「悔い改め」とは何か、そして十字架と罰について神学的に徹底的に追及する中で疑問を抱いたものだといえます。

そして、この中には、第13曲にも出てくるホセア書10.8の表現も登場します。ルター著作集には、巻末に「聖書索引」がついているのですが、これでホセア書10.8を探していたら、この文書にたどり着き、読んでいるうちに、第13曲に通じるいくつかのヒントが見えてきたのです。

以下、ルター著作集第1集第一巻(聖文社 藤代泰三)を引用します。

まず、ルターは冒頭に「悔い改めよ」というイエス・キリストの言葉の意義を解題します。

「命題1 私たちの主であり師であるイエス・キリストが、「悔い改めよ」と言われたとき、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである」

ここから始まって、なんと95もの命題について解題します。

「命題95 そしてキリスト者は、平安の保証によるよりも、むしろ多くの苦しみによって、天国に入ることを信じなければならない」

さて、ヨハネのこのアリアの歌詞については、命題14~17にヒントがあるのではと思います。特にホセア10.8について述べている命題15に注目しました。

「命題14 死に臨んでいる人たちの不完全な信仰や愛は、必ず大きな恐れを伴う。そして愛が小さければ小さいほど、恐れは大きいということになるであろう」

「命題15 この恐れとおののきは(他のことはいわずとも)、それだけでも十分に煉獄の罰をなしている。なぜなら、それは絶望のおののきに最も近いからである」

ここでルターは、「聖書は、地獄の罪は動揺、恐れ、おののき、逃走であるとしるしている。(中略) 確かに聖書のこれらと他の箇所において、恐れ、おののき、恐怖、憂慮、ふるえが、不敬けん者らの刑罰として表現されている」とし、さらに福音を信じない者は(神の罰から)逃げるが、のがれられないで、苦悩の中に捕えられるであろうと述べています。そして、ホセア10.8が登場します。

「そうでなければ、かの声「山よ、あなたがたは私たちの上に倒れよ、そして丘よ、私たちをおおえ」はどこから来るのか。またかのイザヤ2章に「あなたは恐るべき主のみ顔とその尊厳の栄光とから≪のがれて≫岩をつかみ、地の穴に中に隠れなさい」とある」「いかなる罰も、逃避あるいは恐れによって、克服されない。なぜなら地獄を恐れる者はそこに下っていくとのことわざは真だからである」

まさに、このアリアの歌詞と対応しています。煉獄と地獄の問題はさておき、信仰が不完全であることで、動揺、恐れ、おののき、逃走という罪に対する刑罰を受けるが、どんなに逃げてものがれられず、もはや行き場がない。山、丘が崩れて生き埋めになってでも土砂に守ってもらうことでしか逃れられない。ペテロはまさに信仰が不完全な状態になったわけであり、それゆえ、地獄の罪を感じることになった。

さて、命題95に「むしろ多くの苦しみによって、天国に入ることを信じなければならない」とありますが、これも重要な考え方です。ペテロがこれほどの苦しみを感じたからこそ、ペテロは後に赦されたのであり、「私たち」も苦しまなければならない、というのが、ルターの「十字架の神学」の考え方のようです。

「13」でご紹介した「キリストの聖なる受難の考察についての説教」の続きにはこんなことが書いてあります(聖文社ルター著作集第1集第1巻福山四郎訳)。

「第6、さて見るがよい。一本のいばらがキリストを刺すならば、十万本以上のいばらがあなたを刺してしかるべきである。否、永久に、もっとひどく刺してしかるべきであろう。一本の釘がキリストの両手もしくは両足を貫き苦しめるのならば、あなたは永遠にそのような、否、もっと激しい針の苦痛を受けてしかるべきである」

このようなことをいろいろ考え併せて、ルターは「ほんとうの完全な悔い改めとは、このことである。すなわち、罪におびやかされ、卑しくされて、信仰により主イエスとその苦難の中に慰めを見いだすことことである(オリブ山で ルターの「主の受難の説教」 石橋幸男訳聖文社)」と述べています。

では、バッハの音楽はどうなっているのでしょう?(つづく)

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ヨハネに悩める15~第12曲「ペテロ、ついに三度知らないという」

いよいよ前半のクライマックス。ペテロの否認の最終場面です。

ペテロの否認の場面は、4つの福音書のすべてに登場します。そのこともあってか、ペテロの否認を語る際には、4つの福音書をいわばちゃんぽんにするケースが多いようです。バッハのヨハネ受難曲もご多分に漏れず、ヨハネ、マタイ、ルカの3福音書から持ってきています。それもあってか、ヨハネ福音書の文脈だけからは出てこないようなアリアやコラールの歌詞も登場します。ということで、この場面を解釈するためには、ヨハネ以外の他の福音書も念頭に置いておくことが重要かと思います。

ペテロは大祭司の僕や下役にまぎれて立って火にあたっていた。すでに10曲で言ったことをもう一度繰り返しています。そして周りの人々から「お前もあの男の弟子のひとりではないか」と問いただされます。「Bist du nicht・・・」と合唱で歌われる部分ですが、いかにも何人もの人々から繰り返し繰り返し、畳み掛けるように問いただされている様子がバッハの音楽からもうかがい知れます。これだけ何度も言われたら、ただでさえ不安になっているペテロの心はますます追い詰められたような感覚に陥るだろうな。ここは、合唱とはいっても、群衆ではないし、「十字架につけよ!」みたいな熱狂的なところでもないので、むしろ、言葉がはっきり聞こえて、同じことが何度もいろいろなパートで歌われているということがわかるように歌った方が効果的なのではないかと思います。

そして2度目の否認「Ich bins nicht.」 1度目と同じ音型なのですが、2度上がっています。1度目より強い調子で高揚して否定したのかもしれません。

最後に例の耳そぎ事件の被害者の親族から追及され(ルターは、その親族が他のものよりも少しきびしくペテロを攻めたと解釈しています)。ついに三度目の否認をし、そして鶏が鳴いた。そこでの通奏低音の特徴的な音型は鶏の鳴き声のようにも思えます。ヨハネ福音書はここで終わりなのですが、バッハのヨハネ受難曲では、そのあとにマタイ福音書から「イエスの言葉を思い出した。そして外へ出て、激しく泣いた」という部分を付け加えています。「激しく泣いた」の部分は、アリオーソ風になっており、しかも2度繰り返されています。通奏低音を見ると、またもや半音階で上がったり下がったり。心の動揺と不安、恐怖、まさに罪を犯したと自覚した人間の心理を見事に描写しています。このセリフの本家マタイ受難曲よりも劇的な表現だと思います。

なぜ、わざわざマタイから付け加えたのか。真相はわかりませんが、ルターの以下のような解説は、参考になると思います。(オリブ山で ルターの「主の受難の説教」 石橋幸男訳聖文社)

「まことの悔い改めとはなんであるかを学ぼう。ペテロは、「激しく泣いた」。このようにして、悔い改めは始まる。心がほんとうに罪を認め、心からそれを悲しまねばならない。そして、わたしたちが罪を喜んだり、愛したり、また、その中に生きることを止めなければならない。神のみ心に従わず、罪を犯したということが、わたしたちにとって、心にしみる苦痛の種とならなければならない。」(中略)

「さてわたしたちの本性と罪の性質によれば、罪はわたしたちをおびやかし、神の怒りでおどし、ペテロとユダの場合が共にそうだったように、わたしたちの心を苦痛で満たさざるをえない。(中略) ペテロの苦しみは、非常なものであったから、仲間から逃れて、溢れ出て尽きないほどに涙を流しながら、悲しみに暮れざるをえなかったのである」

そして、第13曲のアリアというのは、まさにそんな苦痛に満ちたペテロの心境を歌ったものだといえます。

第8曲からペテロの否認の場面全体を通じて、何度も「わたしたちの罪」ということが繰り返しクローズアップされていることに気づきます。このような観点から、アリア、そして続くコラールを考えてみたいと思います。(つづく)

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2012/07/04

ヨハネに悩める14~第11曲(2)マタイと比較する

このP.Gerhardtのコラール、同じ第3節がマタイ受難曲の第37曲にも登場します。両方の受難曲に共通しているのはこのコラールだけです(ヨハネ第2稿の冒頭合唱とマタイ後期稿の第1部終曲合唱の関係を除いて)。マタイでもやはり大祭司の館でイエスが唾をかけられ、頬を殴られた場面。ただし、マタイでは、「誰が打ちつけたかいいあててみよ!」という合唱に応える形でこのコラールが登場します。ヨハネではこの問いかけはありませんが、マタイと同じような感覚で考えてよいのではと思います。ヨハネの方がより不協和音を大胆に使っていると思われます。

余談ですが、鈴木雅明さん&BCJは、「あなたは罪人ではない(Du bist ja nicht・・)」の部分で独特の表現を用いています。4分音符にくさびをつけているように思えます。程度は違いますが、ここ数年の演奏ではだいたいその方向で演奏していますね。どのような解釈からこのような演奏が出ているのか、残念ながらその理由はわかりません。

さて、ヨハネでは続けて第4節が歌われます。一方、マタイでは第4節は歌われず、第10曲(最後の晩餐で誰が裏切るかを弟子たちが「私ですか?」とイエスに聞いている場面)で、第5節が歌われます。第4節では「私がイエスを打ちつけているのです」。第5節では「私が罰せられなければならなかったのです」。という内容なのですが、この場合の「私」がペテロを指すのか、それとも私たち一人一人を指すのか。それとも、「私たちの罪の象徴」としてペテロの罪(否認)が取り上げられているのか。よくわかりません。ヨハネでは、ペテロの否認の途中でイエスの大司祭邸での尋問の場面が出てくるのですが、マタイでは、大祭司邸での尋問の後にペテロの否認の場面が出てきます。こんな違いも参考になるのでしょうか?

ここで、私はちょっと戻って第7曲のアリアの歌詞を思い出します。この歌詞の元になっているイザヤ書第53章5節というのは、まさに第11曲の第3節、第4節の歌詞の内容に重なるところがあります。イザヤ書のこの部分をルターはとても高く評価していて、「確かに、これは最も魅力のある、慰めに満ちた受難の説教ではないか。まことに、新約聖書の中には、これにまさる説教ができた使徒はひとりもいなかった。」とまで述べています(ルターの「オリブ山で-主の受難の説教、聖文社、石橋幸男訳)。受難から生まれる恵みのエッセンスが、7,11曲に凝縮されているともいえるのではないでしょうか。第4節は「私の罪をあがなうために・・・」という気持ちを表せるか。なかなか難しいです。

いよいよペテロの最後の否認です(つづく)

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2012/07/02

ヨハネに悩める13~第11曲私の罪があなたを苦しめます

罪なきイエス・キリストが無実の罪で訴えられ、ほほを打たれ、そして裁かれようとしている。

こんなひどいことをするのは誰なんだ、誰のせいなんだ?

そしてハッと気づく。そうだ。私のせいだ。私の罪のせいだ。

ルターは、「キリストの聖なる受難の考察についての説教」の中でこう述べます(聖文社ルター著作集第1集第1巻福山四郎訳)

「第五、キリストをかくも責めさいなむ者はあなた自身であることを深く心に銘じて、ゆめ疑ってはならない。それをなしたのがあなたの罪であることは確かだからである。(中略) あなたがキリストの手を貫く釘を見るときには、それがあなたのしわざであることを確信するがよい。また、キリストのいばらの冠を見るときには、それがあなたの邪念のせいであると信じるがよい。」

まさにこのことを歌ったコラールです。ここでも2度の不協和音とか半音階とかが効果的に使われていて、「罪」といった言葉をより一層引き立てます。

このコラールは、前のレチタティーヴォを受けてのものであるとともに、2度目、3度目の否認を通じて第13曲へつなぐものでもあるように思えます。その理由は後程(続く)

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2012/07/01

ヨハネに悩める12~第10曲主と離れるペテロと大祭司の尋問

第10曲は、ペテロの2度目までの否認と、大祭司によるイエスへの尋問の場面。

あれほど威勢のよかった「親衛隊員ペテロ」であったのですが、イエスともう一人の弟子が大祭司の館に入っていき、ペテロ一人が門の外で残されると、たちまち雲行きが怪しくなってきます。イエスが近くにいるときは勇気百倍!そして喜びに満ち溢れて・・・。でも、物理的に主とちょっと離れただけで、心に不安がよぎります。中に入れたもう一人の弟子のことを語っているところと、外に残されたペテロのことを語っているところでは、雰囲気がガラッと変わります。ペテロのところでは、不安、この後起こる大変な不幸なこと、試練を予告するように、和声もなんとも落ち着かない状態(不協和音)が続きます。そしてついに「Ich bin's nicht.」といってしまう。。。

そして次に尋問の場面。正当なことを言っているのに平手打ちを食らわされるこの不条理。しかし、ここでは、ただ甘んじて受けるのではなく、きちっと主張をしている。第4曲(ペテロ耳そぎ事件)の時とは少々対応に違いがある様に思えます。

とにかく、ヨハネの中でもかなり長いReciでもあり、聞かせることが結構難しいと感じています。(続く)

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2009/02/21

ブリュッヘンのハイドン(2)~真打、豊嶋さん登場

15日、20日とブリュッヘン指揮新日本フィルのハイドンを聞きにいく。

15日の感想は省略。第1日目のほうがよかったな。渡邉順生さんのフォルテピアノを除いて。

そして20日。コンマスが豊嶋泰嗣さんに。この人はかなり期待が持てる。

実際に演奏が始まると、これまでとは全然違う世界が展開。もっといえば、次元が違う世界。ブリュッヘンが求めるハイドンというのは、こういう次元の演奏ではないかと思う。アーティキュレーションははっきりしているし、三拍子系、6/8,9/8なども重くならない。高度な小技を随所にちりばめている。豊嶋さんは、恐らく指揮者からいちいち指示されなくても、楽譜から何をすべきかをちゃんと読み取って、極めて高いレベルのボウイング技術を使って表現している。ハイドンの音楽は、もちろん、軍隊や時計や驚愕のような大掛かりな仕掛けや大技も面白いが、そんな曲は全体からすればごくわずかで、多くの曲は、コネタ、小技をあちらこちらにちりばめているところに面白さがあると思う。しかし、それを表現するには、何も指示がない楽譜からそれを読み取り、かつ、それを完璧にこなす高度なボウイング技術が必要。

豊嶋さんのボウイングから学んだことは、アーティキュレーションを明晰にし、小技をちゃんと聞こえるようにするためには、デクレッシェンドを効果的に使うこと。全部の音を弾ききろうとしないこと。軽く弾くべきところは軽く弾くこと。これができるようでいてなかなかできない。低弦は花崎さんや武澤さんがいるので、何事もなかったように涼しい顔してやっているが、他の弦楽器は豊嶋さんと同じようなボウイングをしている人はほとんどいない。堀内麻貴さんに期待がかかるが、残念ながら私の席からは弾いている姿が見えない。次回は、堀内さんの見える場所に席を取ることに。

さて、豊嶋さんが18世紀オケレベルで完璧な演奏をしたおかげで、演奏全体に対する指揮者の要求水準がすごく上がったような気がしてならない。いままでずっと無難に安全運転できたのが、豊嶋さんが入ったら、演奏が刺激的、挑戦的でスリル満点になったような気がしてならない。少なくとも、ブリュッヘンと豊嶋さんの間ではそうであったと思う。しかし、一方で、あまりに挑戦的であるがゆえに、時々アンサンブルが乱れたり、音程がイマイチだったり、というところも見られた。木管が指揮者に合わせるのが大変そうだった。レベルが数段上がったために、今まで気にならなかったようなところが気になりだした、そんな感じだ。

個人的に、木管のアンサンブルに関しては初日、二日目の方が好きだ。オーボエのフアン=マヌエル・ルンブレラス、ファゴットの河村幹子さんなど。

軍隊や時計での演出も面白かった。これだけでも多くの聴衆はかなり楽しめただろう。しかし、軍隊の第4楽章で軍楽隊が派手にやっている裏で、豊嶋さんが弾いている6/8がすばらしかったのである。私はこちらの方に喜びを感じた。そして時計の第4楽章の8分音符が続くところの細かいアーティキュレーション、圧巻は189小節目からのピアニッシモの対位法部分。このアンサンブルは見事というしかない。ブリュッヘンが振って豊嶋さんが弾くからこそできる表現。

こうして考えると、ロンドンセット前半では、Vnやチェロの室内楽的ソロが多く出てくるが、そこを豊嶋さん、花崎さんなどで聞きたかった。

あとは28日のみ。どんなメンバーでどんな演奏を聞かせてくれるのか。今日の豊嶋さんの演奏を聞いて、期待に胸膨らましている。

やはり、プロであれば、豊嶋さんレベルまでできて初めて、モダン楽器による「ピリオド奏法」と呼べるのではないか。付け焼刃の「なんちゃって」ピリオド奏法とは根本的に違うのだ。表面的にでなく、本質的に理解または身体が覚えているのだ。

久々に元気の出る演奏会だった。

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2009/02/18

Rachelは少年だった?BCJカンタータ42巻

(ブリュッヘンのハイドン(2)をお待ちの方、金曜日のを聞いてから書くかどうか考えます)

さて、BCJカンタータ第42巻が発売されました。今回は、13番、16番、32番、72番という地味な曲目。しかし、味わい深い1巻です。オブリガートのVnとObがとてもいいです。もちろん通奏低音も。

そしてなんといってもこの間の注目は、元々キャロリン・サンプソンだったのが、おめでたでキャンセルということで代役に立ったソプラノのレイチェル・ニコルス。ロ短調ミサで第2ソプラノを歌って以来、しばしば登場していますが、どうしてもキャロリンの陰に隠れがち。ところが、このとき以来、主役の座を射止めると、とても輝き始めた。

そのときの本番の様子は、

「BCJ79回定演&カンタータ38巻」
http://bcj.way-nifty.com/kogaku/2008/02/bcj7938_ce1c.html

ちょうど1年前、2月11日です。

そのシリーズのCDがこの第42巻

まるで少年の無垢な声。天使の声ともいっていいかもしれません。

本番のときは目の前に成熟した女性そのものの本人がいますから、さすがに少年には見えないのですが、CDで声だけ聞くと、ボーイソプラノのように聞こえるのです。

ヴィブラートを抑えていることも、そう聞こえる理由なのでしょうか。特に、32番の冒頭アリアが三宮さんのオーボエとあわせてすばらしいです。

渋いですけどオススメの一枚です。

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