2016/10/31

ロ短調ミサ曲(15)~ルター派の礼拝とラテン語ミサ

今日、10月31日は、宗教改革499周年記念日。

ルターは、カトリックのミサの在り方にも疑問を投げかけた。中でも、ドイツ語による聖書朗読と説教、そしてドイツ語による讃美歌(コラール)の導入と、会衆と聖職者の関係の根本的な見直し、さらに聖書に由来しない民間伝承の要素をとりいたものや、金儲けのための要素を排除した。しかし、それ以外のミサの形式については、カトリックで行われていたものを基本的には踏襲している。また、ラテン語を排除することも実は行っていない。

ということで、ロ短調ミサ曲の構成要素(ミサ通常文)についても、ルター自身は何一つ排除していない。それどころか、いまでもルーテル教会の式文にはミサ通常文は残っている(ただし各国語で。ラテン語も否定はされていないようだ)。

さて、礼拝の形式という点では、ロ短調ミサ曲は2つの部分からなる。

Kyrie-Gloria-Credo という常に礼拝で行われる部分と

Sanctus-Hossana-Agnus Dei の聖餐式部分だ。

聖餐式は、プロテスタント教会でも昔は毎週の聖日に行われていたようだが、今では月1回とか年4回とかしか行われないケースも多いようだ。だから普段の礼拝は、Kyrie-Gloriaは歌で、Credoは必ずしも歌でなく全員で唱和、またはニカイア信条ではなく簡潔な使徒信条が唱和される。

もっと普段だとミサ曲の代わりに讃美歌を歌うこともあったようだ。マタイ受難曲の冒頭のソプラノコラールは、ラテン語のAgnus Deiの代わりに歌われた讃美歌。

ルターの「ミサと聖餐の原則」によれば、Kyrie-Gloriaがあって祈りと聖書朗読があって、説教の前後いずれかでCredoが歌われ、または唱和され、というのが基本的な流れで、聖餐式がある場合には、パンと葡萄酒が準備されSanctusが聖歌隊によって歌われ、Benedictusを歌っている間にパンと杯を高く掲げ、主の祈りが読まれ、Agnus Deiが歌われている間にパンと杯が配られる、とそんな感じで使われる様だ。

バッハの時代のライプツィッヒの教会ではどうだったのかは不勉強でわからない。

このあたりについて、バッハのミサ曲とも絡めて解説している論文を見つけたので紹介しておく。

<ミサ>M.ルターとJ.S.Bach
「ミサと聖餐の原則」(1523年)と「ドイツミサと礼拝の順序」(1526年)
池島与是夫著

http://atlantic2.gssc.nihon-u.ac.jp/kiyou/pdf16/16-267-277-Ikejima.pdf

サブタイトルにもなっているこのルターの二つの著作は、「ミサと聖餐の原則」がラテン語の礼拝、「ドイツミサと礼拝の順序」がドイツ語による礼拝のやり方をまとめたものである。「ドイツミサと礼拝の順序」には楽譜もついていて、当時どうやって歌ったかがわかる。Kyrieだけはラテン語の形で残されている。なかなか興味深い論文なので、興味のある方にはぜひ目を通していただきたい。

さて、現代の日本福音ルーテル教会の式文はどうなっているのか。これに興味のある人は、以下の本を参考にしてみてはどうか。

聖卓に集う 日本福音ルーテル教会礼拝式書解説
前田貞一著 教文館

(Amazonでも購入可)

実際のルーテル教会の礼拝がこの通り行われているのかは出席したことがないのでわからないが、ルター派の礼拝にもカトリックのミサの様式の痕跡が残っているというのは、日本の多くのプロテスタント教会(どちらかというとカルヴァンの流れをくむものが多いか)の礼拝のイメージからするととても新鮮で驚きだ。また、ロ短調ミサ曲がルター派のものではなくカトリックのための音楽だとも必ずしも言い切れない、ということを知る上でもよいかもしれない。

ロ短調ミサ曲が実際に礼拝で使われたという証拠はないが、礼拝と結び付けて考えてみることは決して無駄ではないと思うので、宗教改革記念日に書いてみた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/10/22

バッハ愛用「カロフ聖書」にちょっとだけ興味のある方へ

最近、バッハ研究家や演奏家の間で注目されているのが、バッハが愛用した「カロフ聖書」のファクシミリの発売だ。なんと、100万円もする。詳しくは、以下のWebsiteを参照してもらいたいが、とてもじゃないけど買えないし、買ったところでひげ文字のドイツ語にバッハ自筆のドイツ語コメントだから、解読不能。

Bach’s own Bible
http://www.kyobunkwan.co.jp/bach-bible/

簡単に言えば、ルターのドイツ語訳聖書にカロフという神学者がルター自身の著作からの引用を交えて逐条解釈した聖書の解説本。そこにバッハが書き込みやらアンダーラインやらをつけており、バッハの聖書解釈やカンタータなどを作曲する際のアイデアの素がそこに発見できるということで、重要な文献となっている。このブログでもよく引用しているようなルターの著作も数多く引用されているので、当然ながら、ルターの考え方を反映していると思われる。

ルターもそうであるが、カロフも特に詩編においては音楽と絡めた記述が少なからずみられる。そういうところがバッハのお気に入りの一つの理由だったのかもしれない。

さて、買えないし読めない私のようなものがカロフ聖書にお手軽に接するためにはどうしたらいいか、いろいろ探してみたら、あった!しかも英語でたった2,000円!日本のAmazon.co.jpでも買える。

J.S. Bach and Scripture: Glosses from the Calov Bible Commentary
Robin A. Leaver著

https://www.amazon.co.jp/J-S-Bach-Scripture-Glosses-Commentary/dp/0570013291

これは、バッハの書き込みの一覧とその箇所の写真、英訳及び解説がまとめられたもの。バッハの書き込みだけでなく、カロフやルターが書いた部分についても英訳されているので、どのような記述に対してどのようなコメントが付されているかが英語で読むことができる。これなら辞書片手に何とかなる。バッハ愛好家がカロフ聖書について知る程度ならこれで十分かもしれない。もちろん、カロフ聖書の全訳が出ればそれに越したことはないが。。。

一部だけご紹介するとこんな感じである。

「P1100661a.jpg」をダウンロード

このページでは左側にこの本の作者の解説や英訳がついている。

ちなみにRobin A. Leaver氏は、富田庸氏らと共にこんな本も書いている。

Exploring Bach's B-minor Mass
https://www.amazon.co.jp/Exploring-Bachs-B-minor-Mass-Tomita/dp/1107007909/ref=sr_1_6?s=english-books&ie=UTF8&qid=1477141147&sr=1-6

ところで、カロフ聖書全体の雰囲気を知りたければ、実はバッハの書き込みがないカロフ聖書のファクシミリ版をネット上で無料で入手することができる。

Universitäts- und Landesbibliothek (ULB)
http://bibliothek.uni-halle.de/

ここで「Calov Luther」で検索すると、ルター関係のカロフの著作がざーっと出てくる。

Die Kleinen Propheten Nach der Deutschen Dolmetschung S. D. Martini Lutheri,
または
Die Heilige Bibel

ではじまるもので、スマホのマークみたいなのがついているのが、PDFでダウンロードできるもの。

残念ながら、バッハが数多くの書き込みをした旧約聖書の創世記、出エジプト記、レビ記、詩編それに新約聖書はないが、他の旧約聖書(預言書)は見ることができる。

バッハのマニアックな世界にちょっと足を踏み入れてみたいという方には、ぜひおすすめである。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2016/10/18

ロ短調ミサ曲(13)~ルターにおける「霊」「魂」「身体」その5

さて、マタイ受難曲の、ユダの死の部分のバスとヴァイオリンのアリアというのは、ルターのこのような考え方、文脈の中でどう解釈すべきなのであろうか?特に、「wirft euch der verlorne Sohn zu den Füssen nieder!」というのをどう理解すればよいのか。「der verlorne Sohn」は、しばしば「放蕩息子」と訳され、ルカ15.11-32のいわゆる「放蕩息子のたとえ」と関連付けられている。そしてルカ福音書では放蕩息子はゆるされているのに、なぜマタイ受難曲では放蕩息子はゆるされていないのか、という疑問が呈されている。極言すれば、意味不明のまま演奏されているといってもよいくらいだろう。しかも、この曲自体の評判もErbarme dichと比較して決してよくない。蛇足扱いだ。2オケのソリストやバス歌手にとっては、難しい割には報われない、という少々気の毒に思える曲である。しかし本当にそんなに意味の分からないようなアリアなのだろうか?

本題に入る前に、このアリアの私なりの位置づけを整理してみたい。バスが歌うこのアリアは、ユダが歌っているのか、しかしユダはすでに死んでいる。死人が歌うはずがない。それではいったい誰が歌っているのか?そんな議論がある。しかし、私は歌われている内容が大事なのであって、だれが歌っているかということは問題にならないと考えている。つまり、このアリアは、先立つRecitativoの「Und er warf die Silberlinge in den Tempel, hub sich davon, ging hin und erhängete sich selbst.」を解釈したアリア、銀貨を返し、首を吊った時のユダの魂の状態を説明したアリアだと思っている。

実は、ルター訳聖書(1545年)のルカ15.11-32には、「der verlorne Sohn」という言葉自体は出てこないが、「verlorne」という言葉は32節の「Er war verloren / vnd ist wider funden.」に出てくる。他にルカ15.4で「vnd hin gehe nach dem verlornen」といういわゆる「見失った羊のたとえ」の箇所である。また、ルカ19.10 「das verloren ist.」とか。いずれも、「悔改め」に関連した記述であり、神から離れた状態を指していると思われる。大事なのは、「verloren(放蕩した)」ことではなく、むしろ「vnd ist wider funden.」のほうである。ルター派の考え方に沿って言えば、「悔改め」は、「痛悔」と「信仰」ということになるのだが、ユダは「痛悔」すれども「信仰」なしの状態であり、真に悔改めたとは言えない。いまだ人間の浅知恵に頼る「高慢な者」にとどまっている。つまり神のところには戻ってきておらず、見つけられていない状態だ。そして、ユダ本人はそのことに最後まで気付かないまま死んだ。

そうやってバッハのアリアの歌詞を改めて読むと、「Erbarme dich」に比べるといかにも高慢で驕り高ぶった歌詞だ。「金返したんだからいいだろう!文句あるか!さっさとイエスを返せ!」くらいにすら感じる。「自分の義」というのは所詮はそんなものだ。これが信仰あつきクリスチャンなら決してこんな言い方はしないだろう。少なくとも、神に祈るはずだ。「神よ、愛するイエスを私のもとから離れさせないでください。」とか。一般の人から見れば、「イエスを返せ!」というのはよいことをいっているように思えるのだが、ルター的にはとんでもない高慢で不信仰な言葉なのだ。きっと、ピカンダーはそれがわかっていてわざとこういう歌詞を書いただろうし、バッハもまた同じ。毎週説教とカンタータでこのような教えを聞いていたら、教会に集う会衆も何の疑いもなくこの歌詞と音楽を受け入れたのではないか。

また、「der verlorne Sohn」といってはいるが、「vnd ist wider funden.」とは言っていない。神のことなどかけらもない。まさに不信仰の極みである。しかし、神はそんな不信仰極まりないユダさえ実は愛している。本人が不信仰がゆえにそのことに気が付かず絶望し自ら死んだだけだ。「後悔先に立たず」とは言えても、「悔改めが遅すぎた」わけではない。そもそも悔改めしたとは言えないのだから。

ルターは、詩編第2回講義の第一編の講解において、「豚の餌を追い求める者(ルカ5.16放浪息子の放浪中の状況)」について、「自分が懸命に清く生きていると思い、不敬虔のうちに死ぬからである。そして彼らの法が彼ら自身に最大の不義と不正を積み上げてきたことを、彼らが最後になって悔いても空しいであろう。なぜなら彼らは「主の律法を口ずさむ」ことがないからである。」と、まるでユダのことを言っているかのように述べている。「主の律法」は「神のみ言葉」「神の義」といってよいだろう。そしてそれは、「われわれ自身の力に絶望してキリストへの謙虚な信仰をとおして天から与えられるように願い求められるべき」意思によって常に口ずさむものである(詩編119.117等について)とも述べている。

このアリアでは、「悔改めゆるされた放蕩息子」というよりは「豚の餌を追い求める者」としてのユダの魂の状態(私たちも陥るかもしれない)について歌っているというほうが、あの音楽にふさわしいのではと思っている。高慢で、最も愚かで不敬虔な「金を返すという正しい行いさえすれば・・・」というとんでもない思い違い、サタン(悪魔)のみせかけの勝利、を曲にしたのだとしたら、そりゃ、「Erbarme dich」のように感動はしないだろうな。

「高慢」、「愚か」、「不敬虔」、「不信仰」・・・などといったルターのユダに対する評価に照らし合わせて、音楽による聖書解釈としてバッハのアリアの音楽を改めて聞いてみると、なるほどな、そういうことだったのか、となんとなくわかってきたような気がする。

ただし、単にユダのことを非難するだけではない。私たちも油断すれば常にユダになりうるのだということを肝に銘じさせたうえで、イエス・キリストが十字架上でいかに「孤立、無力、絶望」と戦い、そして真の勝利をおさめ、「私たちの罪のあがない」を成就させたのか、というマタイ受難曲の本題に入っていくのである。

なお、これはあくまでルター、及びルター派のユダの裏切り、自殺に関する信仰義認論の立場からの聖書理解であって、カトリックやプロテスタントの他の宗派では全く異なる解釈になる可能性がある。また、現代的な解釈もありうるだろう。そうなった時に、果たしてこのアリアはどう解釈されるのであろうか?いずれにせよ、意味不明、無意味なアリアというレッテルが貼られることだけはないよう望むのみである。

ということで、だいぶ脱線したが、バッハの宗教曲を演奏するにあたって、このルターの説明を知っておいて損はないなと思ったので、長々と紹介した。

次回は、ミサ曲においてこのことがどう関係してくるのかについて考えてみたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/10/17

ロ短調ミサ曲(12)~ルターにおける「霊」「魂」「身体」その4

しかし、第三編ではこのあと大事なことが続く。4節「しかし、主よ、あなたはわたしを支えてくださる方、わたしの栄光、私の頭を高く上げてくださる方です。」に関し、ルターは次のような解説をしている。

「多くの「苦しめる者」に対して「支えてくださる方」を、多くの「敵対して立ち上がる者」に対して「栄光」を、「冒涜する者」また「嘲弄する者」に対して「頭を高く上げてくださる方」を対置する。このようにして彼はたしかに人間たちの前では、また人間たちの考えによれば孤立しているが、しかし、神の前では、また霊によれば決して孤立しないで、きわめて手厚く保護されている。(中略)このように彼は外見は、また人間の目には無力であり抑圧されているが、しかし、神の前では、また霊においては最も強い。それゆえ彼は信頼をもって神の力を使徒とともに誇る。」

また、
「それゆえこの節の言葉は事前の言葉ではなく、恩恵の言葉であり、自由意思の言葉ではなく、最も強められた霊の言葉である。信仰は嵐と死と地獄の闇をとおして神を見るので、見捨てる神をも「支えてくださる方」として認識し、迫害する神を援助者として認識し、糾弾する神を救い主として認識する。」 (引用終わり)

「彼」というのは、本来は詩編作者であるが、ルターはここで十字架につけられたイエス・キリストの姿に重ね合わせている。「神よ、神よ、なぜ私をお見捨てになったのか」(マタイ27.46)というイエスの最後の叫びは、「見捨てる神をも「支えてくださる方」として認識し」信頼しているということの表れではないか。

「人間たちの考えによれば孤立しているが、しかし、神の前では、また霊によれば決して孤立しない。」にもかかわらず、ユダは「人間たちの考えによれば孤立」ということで絶望し、「神の前では、また霊によれば決して孤立しない」ということを認識できなかったので絶望から抜けだせなかった。「神の真実と義」に逆らい、「自分の良心の家において「自分の義」によって行動した結果「死」に至らしめたということであろうか。要は、人間の浅知恵に頼って驕り高ぶるのではなく、神の前に出て(霊)神にゆだねよ、ということなのであろう。まさに、アウグスブルク信仰告白弁証第12条でいうところの「信仰」であり、「痛悔」と「信仰」がそろって初めて「悔改め」といえるということにつながるといえよう。

私は神学者ではないので、厳密なことはよくわからないが、これらは、ルター神学の特徴とも言われる「信仰義認論」「信仰のみ」のまさにコアとなる考え方ではないのかと思う。

「霊」と「魂」というのは、ルターにおいてはこんな風に使われている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/10/16

ロ短調ミサ曲(11)~ルターにおける「霊」「魂」「身体」その3

(2016年10月17日 加筆)

一方、ユダについて、ルターは「七つの悔改めの詩編」第七(詩編第143編)の「なぜなら、敵は私の魂を迫害し、」(第3節)の講解において、次のように述べている(訳は、前述したものと同様)。

「私の敵というのは、その知恵と義によって絶えず私に逆らう者たちである。(中略)そしてキリストにはユダがいるとおりである。ユダ、それは自分の魂に対し、特に魂に関する事柄に対し、つまり真実と義に対して逆らう者である。高慢な者たちは、自分の行いと義が無意味であることを受け入れようとしない。だから彼らは、神の真実と義によってのみ生きる、まさしく義しい人たちを迫害するのである。」(引用終わり)

いまいちよくわからないのだが、ここでは、「霊」という言葉は登場しない。「自分の行いと義」というのは、「魂」の領域であり、「自分の行いと義が無意味であることを受け入れ、神の真実と義によってのみ生きる」というのが「霊」に神のみ言葉がすみついた「魂」の状態であり、ユダはそうではなかった、ということなのか???

また、詩編第2回講義の第三編の講解においてこういうことも言っている(訳は、前述したものと同様)。

「ユダはアヒトフェルと同様に、一隊の兵卒と下役どもを引き連れて、武器を持ってやってきた。またユダは、アヒトフェルと同様に、自分の良心の家に下り、絶望し、首を吊って自殺した。」 (引用終わり)

ここでは、「自分の良心の家に下り、絶望し」というところに注目したい。「自分の良心の家に下り」というのは、ユダが後悔し銀貨を返そうとし、「罪を犯しました」といったことを指しているのだろう。しかし、司長や長老たちからは拒絶され、絶望し、自ら命を絶った。「絶望し」という言葉は、ルターがユダの自殺について述べるときにしばしば見られる。

さらに、次のように述べる。

「じっさい苦しむ者を激しく悩ます三つのもの、すなわち、孤立、無力、絶望がある。これらを、敵対者の三つのもの、すなわち数、力、自信が増し、強める。」 (引用終わり)

この部分は、十字架につけられたイエス・キリストの状況を示し、「敵対者」はユダであり、それを利用しようとしたユダヤの民である。イエスの「孤立、無力、絶望」に対し、敵対者たちの「数、力、自信」を対比させている。しかし、それだけではない。ユダもまた、「私は罪を犯しました」といって悔改めた後に「孤立、無力、絶望」に陥るという皮肉な状況になったことをあらわしている。ユダを利用した司長や長老が、今度は「我々の知ったことではない。」といってユダを見放すのである。福音書のユダの話は結局「孤立、無力、絶望」、そして「死」で終わってしまっている。先に述べたアウグスブルク信仰告白弁証第12条でいうところの「痛悔」を行った状態にとどまっているというのと同じことであろうか。

ちなみに、「良心」については、ルターはこんなことを述べている。

「絶望、霊的悲しみ、動揺した良心の混乱も、本来第一には、罪の多さや大きさから生じて来るのはなく、むしろ罪を恐れて、良いはたらき、義、救いの多さを愚かに追及する心の動きから生じている。」

「良心は(誤った考えによって)、罪がはたらきによって克服されえたし、また克服されうるとみなすからである。神の憐みを仰ぎ見るべきことを知らない者が、はたらきを見出さないとき、彼は絶望せざるをえない。」

さらに、死に臨んでいる不敬虔な者の、また神の裁きへ急いでいる者の不幸な良心は、「ああ、わたし、哀れな者よ。わたしは今までに多くの良いことをしておけばよかった。潔白に留まっていればよかった」という最大の愚かと不敬虔に満ちた言葉を口にするというようなことも言っている。(以上 第二回詩編講義 竹原創一訳 LITHON)

ここでは、ユダのこととはどこにも書いていないが、「自分の良心の家に下り、絶望し」とルターがユダについて言っているのはそういうことなのだろう。ユダの良心は、銀貨を返して「私は罪を犯しました」ということによって罪を克服できた」と思い込み、神の憐みを仰ぎ見ることがなかったが、結局、それによっては罪を克服できないと知った時に、絶望し、死に向かった、というように考えることができるのではないか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/10/12

ロ短調ミサ曲(14)~ルターにおける「霊」「魂」「身体」その6

ミサ曲の歌詞を読んでいると、いわゆる「躓き」がしばしば起きる。つまり、人間の理性ではとらえられないことだらけなのだ。

「私は信じる」という信仰告白であるニカイア信条でさえ、例えば、「すべての世に先立って父から生まれ」とか「父と同質であって」とか「聖霊により、おとめマリアから肉体を受けて人となり」とか、「三日目に復活し、天に昇られた」とか「聖霊は父と子から出て」とか「死人の復活と来たるべき世の命」(ルター派の一致信条書の訳 聖文舎)とか、理解不能なことが並べられている。

ルターが、まだ科学技術が未発達で進化論も登場する前の500年前ですら、「処女受胎」とか「復活」というのは信じることが難しいと述べているくらいである。まして、現代人には受け入れることは難しいのではないか。前述したように「理性は神的な事がらに関与するには、あまりに弱い」とルターが述べているとおりである。となると、やはり「霊」の働きが必要となる。「霊は、人間の最高、最深、かつ最も貴い部分である。これによって人には理解しがたい、見えない、永遠なるものを把握する。」 このことを通じて、理解できないことを信じるようになるというのである。信仰告白し、洗礼を受け、聖餐にあずかる、そして礼拝に出席して神のみ言葉(およびそれをあらわした音楽)により、霊が高められ、魂を揺り動かし、信じ難いものを堅く信じるようになるということであろうか。

ところで、日本では、しばしば「クリスチャンでなくてもバッハの音楽を味わえるか」という議論が巻き起こる。非クリスチャンは、バッハの音楽はクリスチャンに限らず理解できるし、楽しめるような普遍的な価値がある。といい、クリスチャンは、そういう面は否定しないが、クリスチャンであること、すなわち、信仰がある(信じている)からこそバッハの音楽から受け取れるものもある。という。

このことをルターの三分類に当てはめて考えると、クリスチャンはまさに「霊」でバッハの音楽を受け取っているといえるのではないか。バッハ自身が宗教曲を作曲する際にも「霊」の働きがあったと考えられるので、まさにバッハと聞き手なり演奏家なりの「霊」が神を通じて呼応しあう状態になっている。クリスチャンでなくても、「理性」、「魂」で受け取れるものはすくなからずある。それでも十分に価値はある。しかし、バッハの音楽によるメッセージは「霊」に働きかけることにこそその本質がある、と考えれば、おのずと違いを認めざるを得ないのではないか。個人的には、受け取るものの本質的な違いがあっても、それはそれでいいし、その違いをお互いに受け入れ、尊重することが大事だと思う。どちらがより深く理解し、味わえるかなどと言って競うような問題ではない。

私自身は、「イエス・キリストが私たちの罪をあがなってくださった。」「神はいつも私たちと共にいて、私たちを見守り、励ましてくださっている。」と思いながらバッハの音楽を聴くと、その気持ちがますます豊かになっていくのを感じずにはいられない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/10/10

ロ短調ミサ曲(10)~ルターにおける「霊」「魂」「身体」その2

今回は、「霊」「魂」「身体」に関するルターの説明が、バッハのカンタータや受難曲の理解にどのように関係するかについて考えてみたい。

実際に、「魂(Seele)」という言葉がタイトル(冒頭合唱の冒頭歌詞)に入った曲、例えば、BWV10,35,69(69a),78,143,170,180,186といった曲、そして同様に「霊(Geist)」が入った曲、例えば、BWV35,115,165,181の歌詞を、ルターの説明に照らして読み込んでいくと、なるほどそういうことだったのか、ともやもやしたものが一気に晴れたような気にすらなる。

BWV170は、サタンが人間の「霊」に棲みつき、「魂」が憎悪・怒り・復讐や恐怖に襲われた状態から、神によって「霊」がきよめられ、「魂」が愛や喜びに満ち溢れ、安らぎを得た状態に導く内容のカンタータであると考えられる。

BWV10は、いわゆるドイツ語Magnificatであり、「私の魂は主である神をあがめ」という歌詞から始まるが、ルターのこの「霊」「魂」「身体」の説明はずばり「私の魂は・・・」及びこれに続く「私の霊は・・・」の説明である。もちろん、Magnificat BWV243についても同様である。証拠はないが、ルターのMagnificat講解を知っていたであろうことは容易に想像できる。

(以前書いた記事も参照)

http://bcj.way-nifty.com/kogaku/2007/09/bach_magnificat_3c51.html

BWV35は、「Geist」と「Seele」の両方が出てくるが、これは、聖書に書かれているイエス・キリストの奇跡が人の理性ではとらえられない(理解できない)、見えないことであり、「霊」によってとらえられ、そしてそれによって「魂」が働く(つまり信じる)というようなことが前提になっていると思われる。

ちなみに、BWV35も170もアルト独唱曲である。またタイトルに「魂」は入っていないが、BWV54は、サタン、悪魔を「霊」から追い払い、「魂」が本来の役割を果たせるようにしろ!というような趣旨のカンタータとも言える。

バッハのカンタータや受難曲においては、アルト独唱は「魂」をあらわすというようなことがしばしばいわれているようであるが、まさに神によってきよめられた「霊」が理性の光を支配した状態での「魂」を表すにふさわしいのではないか。また、ヴァイオリンは人の弱さをあらわすともいわれるが、これは「理性」の弱さであり「魂」の弱さである。アルト独唱とヴァイオリンの組み合わせといえば、まっさきにマタイ受難曲の「Erbarme dich」を思い出すが、ペテロの「理性」「魂」の弱さがゆえにサタンの奴隷となり、神を信じず、三度「知らない」といったことに対し、神がペテロの「霊」に働きかけ、それによって神を思い出し(イエスの言葉を思い出し)、サタンを追い出し、「魂」が揺さぶられ、(身体に働きかけ)激しく泣き、神に嘆願した、というまさにこのルターの「霊」「魂」「身体」の説明がぴったり当てはまるではないか。(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ロ短調ミサ曲(9)~ルターにおける「霊」「魂」「身体」その1

本題に戻る前に、ちょっと触れておきたいことがある。

バッハのカンタータなどの歌詞には、よく「霊」「魂」「身体」「肉」といった言葉が現れる。そもそも聖書にそのような言葉が頻繁に出てくるからだからなのだが、特に「霊」「魂」についてはどうもいまいちイメージがわかない。日本には「霊魂」とか「大和魂」という言葉があるが、「霊」と「魂」は何が違うのか。ということで、ルターが考える「霊」「魂」「身体」「肉」について調べてみた。

ルターは、まず、人間の本性をパウロの書簡(テサロニケ一5.23)にあるように「霊(Geist)」「魂(Seele)」「身体(Leip)」の3つからなるとしている。また、人間の性質を「霊」と「肉(Fleisch)」を信仰(善)と不信仰(悪)の対立関係としてとらえ、「霊」「魂」「身体」のそれぞれが「善」あるいは「悪」であり「霊」と「肉」だとしている。つまり「霊」は本性でもあり性質でもあるという二つの意味でつかわれているという実にややこしい関係だ。さらに「霊」と「霊性」、「魂」と「理性」の関係についても述べている。これだけでも訳がわからずくじけそうになってしまうが、もう少し解明してみようと思う。

以下、バッハも作曲したMagnificat(マリアの讃歌)(ルカ1.46-55)に関する訳と講解(1521年)にある記述を紹介する。(内海季秋訳 聖文舎)

まず「霊」であるが、
「霊は、人間の最高、最深、かつ最も貴い部分である。これによって人には理解しがたい、見えない、永遠なるものを把握する。短く言えば、それは信仰と神の言葉の住まいである。」

次に「魂」について、
「魂は、その本性について言えば、この霊であるが、その働きにおいて他なるものである。すなわち、からだに生命を与え、からだをとおして働くものと考えられ、そしてしばしば聖書においては、生命とおきかえられている。(中略)そして、その作用は、理解しがたいものを把握することではなくて、理性が認識し、判断しうることを把握することである。(中略)霊が、より輝かしい信仰の光に照らされて、この理性の光を支配しない限り、理性はけっして誤謬なしにはあり得ない。というのは、理性は神的な事がらに関与するには、あまりに弱いからである。聖書は、これらの二つの部分に、多くのものを帰している。すなわち知恵や知識―霊に対しては知恵、魂に対しては知識、さらにまた憎悪、愛、喜び、恐怖などである。」

最後に「身体」について、
「その働きは、魂が知り、霊が信じるところを、実行し適用することである。」(引用終わり)

なお、「Geist」も「Seele」は歌詞対訳ではしばしば「心」と訳されているようだ。「魂は、その本性について言えば、この霊であるが、」とあるので、「身体」との対比で言えば、どちらも「心」ということになるのであろうが、「その働きにおいて他なるものである。」ともあるので、訳詞だけ読むのではなく、ドイツ語も合わせて読まないと、「心」が「霊(Geist)」のことを言っているのか、「魂(Seele)」のことを言っているのか判別できず、歌詞の意味を正しく認識することができないのではないか。

このルターの説明の中で、私が印象に残ったのは、「魂」に関する「霊が、より輝かしい信仰の光に照らされて、この理性の光を支配しない限り、理性はけっして誤謬なしにはあり得ない。というのは、理性は神的な事がらに関与するには、あまりに弱いからである。」という部分である。なぜならば、これこそがバッハのカンタータの主たる目的だと思ったからである。つまり、「神のみ言葉」である聖書があり、その解説としての説教があり、それに音楽を付けたものがカンタータ、とするならば、「神のみ言葉」によって「霊」を強め、「理性の光を支配」することを助け、その誤謬なき理性が認識、判断したことを「魂」が把握し、からだに生命を与え、からだをとおして働く、という一連の働きに寄与することこそが、カンタータの本質であるといえないであろうか。(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/09/27

ロ短調ミサ曲(8)~まだ脱線、ルター訳聖書における「eleison」その3

「とめておく」といいながら、再び、詩編第6編に戻る。

第7節「私は夜通し私の床を水で洗い、涙で寝床を浸しています。」
第9節「悪を行うすべてのものは私から離れよ。主が私の泣く声をお聞きになったからです。」
第10節「主は、私の願いを聞かれた。私の祈りを主は受け入れてくださった。」
(七つの悔改めの詩編 俊野文雄訳 徳善義和改訂 LITHON )

ここで、ルターは、主が、泣き、嘆く者たちの声は喜んでお聞きになるお方だと述べている。加えて、泣くことは行いに先立ち、苦難を味わうことは、一切の行為にまさる、とも言っている。ちょっと待て!これって、ひょっとしてカンタータ第12番「泣き、嘆き、憂い、怯え」の合唱の歌詞の内容ではないか。しかも、これはロ短調ミサ曲のCrucifixusの原曲だ!!!

ペテロは三度「知らない」といった後に「外に出て、激しく泣いた」が、おそらくこのような状況で神に祈り、神の恩恵、つまり、神はいつも私のそばにいてくださり、励ましてくださるということを感じることができ、生きる勇気を与えられ、死に至らずに済んだのだろう(マタイ福音書には具体的に描かれていないが、ピカンダー及びバッハが付加したアリアとコラールは、そういう解釈をしたのではないか)。

これらのことから、ルターにとって、「主よ、憐れみたまえ」と祈るということがどういうことなのかを、なんとなくイメージできるのではないか。

ついでのユダのことも。。。
これに対し、ユダは、後悔し、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました。(新共同訳)」といったものの、神に向かっての願い、祈りがない。神に立ち返ることができず、神が共にいてくださることを感じることができず、生きる力を受け取ることができず、死に敗れたのだ!

ト短調ミサBWV235の「Kyrie eleison」の原曲となったカンタータ第102番「主よ、汝の目は信仰を顧るにあらずや」の冒頭合唱は、エレミア書5.2によっているが、まさにこのユダと同じ状況に陥っている。

エレミア書5.2(一部抜粋)
彼らを打たれても、彼らは痛みを覚えず
彼らを打ちのめされても彼らは懲らしめを受け入れず
その顔を岩よりも固くして
立ち帰ることを拒みました。
(新共同訳)

カンタータでは、この後、ひたすら、神に立ち返ること、悔い改めることを促す曲が続く。

そして、この悪に支配されたどうしようもない状態を歌った合唱が、ミサではなんと「Kyrie eleison」に生まれ変わる。全く正反対の状態だ。しかし、こんな状態から悔い改めて神に立ち返ることができた時の祈りだと考えれば、「なるほどな」という気もしないでもない。カンタータは「使用前」、ミサが「使用後」みたいなものだ。

これについて、ルター派の信仰告白の論拠を述べているともいえるアウグスブルク信仰告白弁証では次のように述べられている。 「なぜサウルやユダや同類の者たちが、いたく痛悔しても恵みを得ることができなかったのかと問う者があれば、ここでは信仰と福音について答えられるべきである。すなわち、ユダは信じていなかったし、キリストの福音と約束によっては強められなかった。つまり、信仰がユダの痛悔とペトロの痛悔との違いである。」「ユダとサウルの痛悔はなんの役にも立たなかった。彼らには、キリストのゆえに与えられる罪のゆるしを把握する信仰がなかったからである。ダビデとペテロの痛悔は役に立った。なぜなら彼らには、キリストのゆえに与えられる罪のゆるしを把握する信仰があったからである。」(徳善義和訳、一致信条書 聖文舎)

「把握する信仰」というところがポイントである。たとえ神が恵みを与えていても、そのことを把握できなければ受け取ることができない。それがペテロとユダの違いだというのだ。

少々わかりにくいが、ルターによれば、悔い改めは、「痛悔、すなわち罪の認識によって良心をさいなむ恐れ。」と「信仰であって、それは福音あるいは罪のゆるしから生じ、そして、キリストのゆえに罪がゆるされることを信じ、良心を慰めまた恐れから解放する。」という二つの部分から成り立つとしている。(アウグスブルク信仰告白(ラテン語)第12条 石居正己訳 同上)。ユダは前者のみ、ペテロは両者そろっていたということであろう。「Erbarme dich」はまさに信仰のアリアであるといえよう。

脱線が過ぎたようだ。Vn弾きの性でどうしてもマタイ受難曲の「ペテロの否認」に向かってしまう。そろそろ本題に戻ろう。「神の名を唱える」そして「祈り」についてもう少し考えてみたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/09/26

ロ短調ミサ曲(7)~まだ脱線、ルター訳聖書における「eleison」その2

では、ルターはなぜ詩編全体で「Miserere mei domine, (憐れんでください、主よ)」を「HERR ich mir gncbig, (恵み深くあってください、主よ)」と訳したのであろうか?

第2回詩編講義(1519)において、ルターは次のようなことを述べている。 (引用)「「憐れんでください」という言葉が、この箇所では本来罪のゆるしを意味するのではなく、恩恵あるいは力を意味することを彼らは欲する。罪をゆるすことはしばしば「寛大さ」という語や、(中略)「主は憐れみ深く、また憐れむ方」と言われているような「憐れむ方」という語によって言い表される。恩恵あるいは力によっては、魂が強められ、その結果「私は弱い」あるいは「私は無力である」という言葉とぴったり対応することになる。なぜなら無力は力によって助け支えられるからである。」(第二回詩編講義 竹原創一訳 LITHON)(引用終わり)

そして、「七つの悔改めの詩編」では、「HERR ich mir gncbig, 」について、「これは、私が不安とおそれのうちに消え失せぬよう、あるいは落胆せぬよう、私に恵みを示してください、ということである。」(七つの悔改めの詩編 俊野文雄訳徳善義和改訂 LITHON )と説明している。

第2回詩編講義では、この詩編6章全体について、「死と地獄の激しい苦悩によって十字架を負わされているものにふさわしい。なぜなら言葉自身もそのことを指示しているからである。(中略)苦悩している者の心の動き、求め、呻き、言葉、助言がどのようなものであるかが、この詩編では説明される。」(同上)

さらに、10節について「「願い」はヘブライ語では、本来憐れみや恩恵を願い求めることを意味する語である。それゆえ、これは「主よ、私を憐れんでください」(中略)と呼応する。そこでは恩恵と力が願い求められているとわれわれは言った。他方、「祈り」は災いを免れる願いのうちにある。」(同上)と述べている。(なお、新共同訳では「祈り」は「嘆き」とされている。)

罪の苦しみ、痛みを罪のゆるしで救う、というより、もう少し広い苦しみ、痛みに対する神の恵みを指しているのであろうか?詩編がイエス・キリストが十字架につけられ罪をあがなう前に歌われたからか・・・。ルターが旧約聖書をドイツ語に翻訳するに際して、ギリシャ語やラテン語だけでなく、ヘブライ語を学び、ヘブル語の単語の意味から導き出した可能性もある。

いずれにせよ、「死」を覚悟しなければならないような経験(罪の苦しみを含む)したものでなければ決してわからないような苦しみ、不安、そしてそういうときに神がそばにいてくださっていることを思い出し、神へ祈り、そして神の恩恵の受け取り(感じ取る)、生きる力が与えられる。そういうものをこの詩編の祈りでは言い表しているのだろう、というあたりで、とりあえずとめておくのがよかろう。私自身、そこまでの苦しみを経験したことはないので。。。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧