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2020/01/03

マタイ受難曲徒然(7)~ユダと悪魔・サタン・蛇について考える その5

さて、ペテロのほうに話がそれてしまったので、もう少しユダに対する評価を見てみよう。

彼は主がピラトのところへ連れていかれるのを見て、主の生命が危いと恐れ、気の毒になり、今や初めて自分のやったことを認めたのである。さて、罪が目覚めた以上、罪はその本性に従って、たいへんな凶暴性と脅威をもって行動するから、彼はそれに耐えることができなかった。(引用終わり)

これは、「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、(新共同訳)」の解釈である。「今や初めて自分のやったことを認めた。」とは罪を認めたということであり、それをもって「罪が目覚めた」と表現している。ではそれまでは、ユダに罪の意識はなかったのか?ルターはそのことを「罪が眠っている」と表現している。罪を犯してもすぐにはその重荷に気がつかない(気にしない)。だから気をつけなさいということを言っている。

次には

以前には、彼は銀三十を非常に愛したから、それを手に入れるために、良心の呵責なしに、主イエスを裏切って売り渡すことができたが、今では、事態は逆転したのである。(引用終わり)

「良心の呵責なしに」というのは、まさに罪を自覚していないことを意味する。それが逆転したというのだから、今度は良心の呵責にさいなまれるということだ。

もし、彼がいま、その金と全世界の富をもっていたならば、彼はそのすべてを主イエスの生命を救うために投げ出したいと思った。彼をそのように惨めなものにしたのは、金を愛する愛であり、この罪を彼にもたらしたのは、金を持とうという決意であったから、今や、彼は完全に金を憎むものとなり、それを持っていても少しも休息と平安を得ることができず、大祭司の後を追って宮に入り、過ちを犯したことを告白し、彼らがイエスを釈放さえしてくれれば、金を彼らに返すことを申し出た。しかし、祭司長はそうはしなかったので、何とかその金から逃れようと、彼はそれを彼らの足下に投げ捨てた。咲いて、これが罪の特異性である。(引用終わり)

「この世の財宝(金)では心の休息と平安を得ることはできない」というカンタータで何度か登場するテーマがここでも現れる。ルターは、銀三十を返すことについてこのような理解をしているのだ。最初の方を読むと、いかにも反省してよいことを偉そうにしているようにも見えるが(これの何が悪いんだ?と思える)、ルターの評価はそうではないのだ。

ユダは正直に祭司長たちに自分の悩みを打ち明けた。彼は言う、「私は罪を犯しました。私は罪のない血を裏切りました」、と。(中略)「それは、われわれの知ったことか」と彼らはユダに告げた。彼らはすべてのことをユダの責任とし、そのあわれな、おびえている魂を、慰めのことばや、忠告のことばで助けようとは少しもせず、耐えられない重荷を負わせた。(引用終わり)

「私は罪を犯しました。私は罪のない血を裏切りました」はいかにも罪の告白で、悔い改めた証拠にもなりそうなものだが、なにせ言った相手が悪かった。ユダを利用するだけ利用して、ユダにすべての責任を擦り付けて、トカゲのしっぽ切りをしようとしているさらに悪どい連中だ。まさに狡猾な蛇だ。イエスを裏切ったユダが、今度は祭司長たちから裏切られてますます苦しむ、というあわれな構図だ。時代劇でもよく見る光景だ。しかし、これが神に対する告白であったならどうだったのだろうか?(続く)

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