マタイ受難曲徒然(2)~ルターの「キリストの聖なる受難の考察」その2
第12 (中略)もし人間が自己の罪を認め、自己自身というものに驚愕した場合には、罪がいつまでもそのような状態で良心の中にとどまっていないように注意しなければならない。でなかったら、絶望以外の何ものもそこからは生じないであろう。ちょうど罪がキリストから流出して認識されたように、人は罪を再びキリストの上に注ぎかえし、良心を罪から解き放たねばならない。それゆえにあなたは、心に罪を宿して自らをさいなみ、苦しめている愚か者のまねはしないよう気をつけるがよい。彼らは善きわざや償罪によってあちこちと回り歩き、(中略)罪から解かれようと努力しているが、それはできない相談である。(引用終わり)
これは、首をつって死んだユダのことを言っているようにも思える。「わたしは罪のない人の血をを売り渡し、罪を犯しました(新共同訳)」というのは、ここでルターが言うところの「自己の罪を認め、自己自身というものに驚愕した」状況であろう。「銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして・・・(新共同訳)」というのは、「善きわざや償罪によってあちこちと歩き回り、罪から解かれようと努力している」様。しかし、結局祭司長たちに「我々の知ったことではない。お前の問題だ。(新共同訳)」と言われてしまう。まさに「それはできない相談」である。
ここに、バスのアリア「私にイエスを返せ」の意味を解くヒントがあるような気がする。
同時に、ルター自身の体験を言っているようにも思える。修道士時代にいろいろ「善きわざ」をやったがダメだった。。。それが宗教改革へのモチベーションになっているのではないか。(中略)のところには、実は、いわゆる贖宥状(免罪符)のことも書かれている(贖宥状の意味をルターが正しく理解していたかどうか、という議論はあるが)。
第13 キリストの傷と苦しみはあなたの罪のためであり、キリストがあなたの罪を負うて償いたもうことをあなたが堅く信じるとき、あなたは自分の罪をあなた自身からキリストの上へと投げかえすことになる。(中略)あなたの良心があなたを責め苦しめることが激しければ激しいほど、あなたはますます大胆にこれらの言葉や、こうしたたぐいの言葉に信頼しなければならない。もしあなたがそうしないで、不遜にもただあなた自身の痛悔や償罪によって、その責め苦をしずめようとするならば、永久にやすらいを得ることはないであろう。そして、結局は絶望に陥る以外には道はない。。。
そろそろこの考察の核心に近づいてきた。まさに、ルターの中心的な考え方であり、バッハのカンタータを貫く考え方がここにみられるような気がする。ペテロもユダも、自分の罪を認め、それぞれの方法で告白した。しかし、ペテロは主の言葉を思い出して自分の罪をキリストの上に投げ返したのに対し、ユダは不遜にも自分自身の痛悔や償罪によって、その責め苦をしずめようとして、結局絶望に陥って首をつった。
では、どうしてユダはペテロのように主の言葉を思い出して自分の罪をキリストに投げ返さなかったのか、投げ返せなかったのか。ユダにもイエスは少なからず言葉をかけているし、すべてを悟ったうえで最後の晩餐にも招いているし、最後は「友よ、しようとしていることをすればよい。(新共同訳)」とまで言い、剣を抜くほかの弟子を止めてもいる。ユダの罪も全て受け止めている。そのことを思い出したらユダは果たして首をつったのだろうか?この謎は、この「考察」だけからは残念ながら読み取れない。いずれにせよ、ユダは「悪の象徴」というより、「反面教師」といった方がよいのではないか。
第14 あなたが信じることができないのであれば、それができるように神に乞い求めるべきである。(中略)それによってあなたは心をはげまされて、第一にまずキリストの受難の日に目をとめなくてもよいようになる(キリストの受難はすでにそのはたらきをなしとげて、あなたを驚愕させたからである)。むしろ、あなたはそこを突き抜けて、あなたに対する愛に満ちたやさしいキリストの心を見るようになる。キリストはそうした愛に迫られて、あなたの良心とあなたの罪の過酷な重荷を負いたもうのである。こうしてあなたの心はキリストに対してなごみ、信仰の信頼が強められる。(中略)キリストはあなたに対する愛をもって神に服従したもうのである。(中略)そのときあなたは、「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった」というキリストについての言葉を理解するであろう。(引用終わり)
第15 こうしてあなたの心がキリストにしっかりと結びついて、責め苦を恐れる心からでなく、愛から罪を憎むようになったら、その後もずっとキリストの受難が、あなたの全生涯を通じて、あなたの模範とされねばならない。(引用終わり)
結局、受難というのは「神の愛」に尽きる、ということになる。自らの罪に驚愕し、恐れおののきつつ、最後は神の愛に気がついて感謝して信仰を強めて魂を平安にして。受難曲というのも本来はそういうものなのだろう。
最終曲の涙は罪なき人が十字架にかけられた同情の涙ではなく、罪を悲しみ、神の愛に触れた涙である。
最後のソリスト4人のRecitativoが、このことを語っている。だからこそそれぞれのパートが語ることを、それぞれ味わい尽くしたいものだ。そして、その内容が第1曲とも対応していることに改めて気づく。
(おわり)
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