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2020/01/01

マタイ受難曲徒然(1)~ルターの「キリストの聖なる受難の考察」その1

「マタイ受難曲って、すべてバッハの独創なの?」とふと考えてしまう。

 

そこで、またまたルターの説教の中にヒントとがないかを探してみた。まずは、1519年の「キリストの聖なる受難の考察についての説教」。

なお、訳はすべてルター著作集第1集第1巻(聖文舎)から。

 

第1 キリストの受難を考えるのに、ユダヤ人のことを怒ったり、憐れなユダをとがめる歌をうたって非難したりして、それで満足している人々がいる。(中略)これではユダやユダヤ人の悪が考えられているのであって、キリストの受難が考えられているとはいえないであろう。(引用終わり)

まあ、そう考えるのが普通だろうな。特にクリスチャンでない一般の日本人にとっては。バスのアリア「私のイエスを返せ」も、こういう理解だと意味不明。なんでいきなりあんなに明るくエラそうな曲なのかって?

第3 彼らはキリストを罪なき人として、そのために悲しみ泣き、同情の意を表する。(中略)ベタニアにおけるキリストの告別や、おとめマリアの心痛について長々とおしゃべりし、しかもそれだけで終わってしまう人々はみなこのたぐいの人たちである。(引用終わり)

これってダメなの? だって、マタイ受難曲も「涙」が何回も出ているし。ほとんどの人は、これだよね。最終曲にも「涙する:Wir setzen uns mit Tränen nieder」とあるよね。

第4 キリストを向いて、その受難に心底から驚愕し、良心がたちまち絶望に陥る人、キリストの受難を正しく考えるとはそういう人々のことである。(中略)父の永遠の知恵なる神の御子ご自身が苦しみたもう事実をあなたが真に深く考えるなら、あなたは驚愕せずにはおられまい。考えることが深ければ深いほど、驚愕の度もますであろう。(引用終わり)

マタイ受難曲を聞いて、絶望に陥ったまま家路につく人が、果たしてどれだけいるであろうか?「アルトのアリアがよかったね」とか言いながら酒を飲む姿のほうがいかにもありそうだ(自戒も込めて)。しかし、最終曲は、「悩める良心:dem ängstlichen Gewissen」とあるので、いまだ絶望の中にとどまっているようにも見えなくはない。ヨハネ受難曲が喜びに満ちたコラールで平和に終わるのと対照的だ。

第5 キリストをかくも責めさいなむ者はあなた自身であることを深く心に銘じて、ゆめ疑ってはならない。それをなしたのがあなたの罪であることは確かだからである。(引用終わり)

このことは、コラールで何度か歌われているので、なんとなくわかる。"Ich bins,ich sollte büßen,"と歌われているとおりである。 コラールで歌われているということは、普段の礼拝の中でも信徒たちが「信仰告白」として歌っているということ。これがあるから、「良心がたちまち絶望に陥る」ということになる。常にこの気持ちを持ち続けながらマタイ受難曲を全曲聞く、というのが、バッハが意図した本来の聞き方なんだろうな。同情するだけではダメなんだな。

第6 さて見るがよい。一本のいばらがキリストを刺すならば、、十万本以上のいばらがあなたを刺してしかるべきである。否、永久に、もっとひどく刺してしかるべきだろう。(引用終わり)

なんと厳しい。それだけの良心の痛みを感じて聞かなければならないのか!「棘」がイエスを刺す場面、または棘を表す音型が出てきたときは、弾く人自身が心に棘の痛みを感じながら弾かなければならないということなのか・・・。

第8 この点で人はよく修練しなければならない。キリストの受難の効力は、ひとえに人間が自分自身を認識し、自分自身に驚愕し、打ちくだかれるところにあるからである。人間がここまで至らなければ、キリストの受難は人間にとって、まだほんとうに役立っているのではない。(中略)キリストが私たちの罪のために、からだと魂をむざんに責めさいなまれたもうたように、私たちもまたキリストにならって、私たちの罪のため、良心が同様の責め苦を受けなければならない。(中略)かの悪人たち、すなわち神をさばき、追い出したユダヤ人たち、彼らはただあなたの罪に仕えたしもべに過ぎなかったのである。おのが罪により神の子を十字架につけ、ほふったのは、すでに述べたように、まことにほかならぬあなた自身なのである。(引用終わり)

イエスに同情したりユダやユダヤ人を非難する、そういうのは、受難の出来事を他人事だととらえていて、自分のこととしてとらえていないからダメということなのか。「私たちもまたキリストにならって、私たちの罪のため、良心が同様の責め苦を受けなければならない。」というのは、バッハのカンタータでもよく出ているテーマ。カンタータで毎週教えられていることは、受難節だからと言って何ら特別に変わることはない重要テーマということなのだろうか。

それにしても、ここまで「良心が責め苦を受けなければならない」となると、我々はいつまでも絶望の淵に置かれたままということになる。ということで、ここから後が本当に大事なところだ。(続く)

 

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