マタイ受難曲徒然(8)~ユダと悪魔・サタン・蛇について考える その6
いまや第三の、そして最後の災難がやって来る。罪が良心をむち打ち続け始めると、悪魔はぐずぐずしていないで、赤い焔が内に猛り狂うまで、その火をかき立て、吹き上げ、救出しようとするすべての企てをむなしくさせる。そのような恐怖と苦悩の中で、ユダは悪魔に促がされ、ついに彼は急いで出て行って、みじめにも首をつった。これこそ、悪魔がその初めから、罪によってもたらそうとしていた目的であった。初めからこの目的を考え、予想できる者なら、おそらく祈ってそれに対する警戒をするであろう。しかし、それは隠されている。(引用終わり)
ここで再び悪魔が登場する。「赤い焔が内に猛り狂うまで、その火をかき立て、吹き上げ、救出しようとするすべての企てをむなしくさせる。」という記述に注目である。カンタータにも、悪魔・サタンが猛り狂う場面、またはサタン・悪魔と神が戦う場面というのはたびたび登場する。ある時は嵐であったり、大波であったり。
「しかし、それは隠されている。」というのは、最初は大したことないと思って「まあこの程度ならいいや」というのが徐々にエスカレートして、やがて事の大きさに気づいて愕然とする、」みたいな感じだろうか。
そして、次にユダの例から何を学ぶべきかについて述べている。
だから、この例をよく研究し、その記憶が決して去って行かないようにしようというのは、これはわたしとあなたがた、そしてわたしたちすべてのものが。罪の正確な認識を得るための助けとなり、罪に対する盾として、わたしたちに役立つものとなるからである。(中略)まず第一に古いアダムをそのように得意がらせ、喜ばせるのが罪の本質であるから、古いアダムはそれを喜び、愛すようになるが、それは罪が目覚めるまでしか続かないからである。それから、第二に、その次に来るものは、悩み、苦労、恐怖、棄権、驚き、おののき、絶望、そして最後に永遠の死である。ユダの例から、わたしたちは罪のこれらの二つの特性を認め、罪の美しい、きれいな、そして、楽しそうな顔つきに欺かれて、指導も、小言も受けようとしない世間と同じように、惑わされないようにしよう。(引用終わり)
カンタータ第54番"Widerstehe doch der Sunde"「罪に抗すべし」の内容そのものではないか!そのほか数多くのカンタータで、罪にどう立ち向かっていくのか、というテーマが取り上げられており、教会の説教の中でもたびたび取り上げられているテーマであったことがうかがい知れる。それがマタイ受難曲の中でユダの例を通じて取り上げられていたとして何の不思議があろう。
悪魔は、彼の罪を大きな、高い山と変えたので、神、神の言、約束、あわれみを彼の目から隠してしまった。そのために、彼は絶望したのである。さて、わたしたちが混乱をその源にさかのぼると、もし、ユダが神の言をむなしいものとしてしまわず、もっと熱心に学び、それに服従していたならば、たとえそのような大きな苦悩の中にあっても、自らを慰めることができたはずであるということを否定できるだろうか。(中略)罪が目覚め、わたしたちを懲らし、悩ます時は、聖なる福音をもって、自分を守り支えなければならない。この福音はわたしたちに、キリストが全世界の罪のために苦しみを受け、あがないをなしたもうたおかたであることを示してくれる。そして、この福音の中に、わたしたちは、全能の創造主であり父でありたもう神が、罪人の死を願わないで、罪人が戻ってきて生きること、つまり自分の罪を認め、悲しんで、主イエスによる罪のゆるしを待望するよう願っておられるのを見る。しかし、ユダはこれらの福音の賜物をもたず、それで絶望したのである。(引用終わり)
いい方は違うものの、繰り返し、ユダが絶望した理由について神の言をないがしろにしたからだと述べている。対してペテロについては、ペテロが主イエスの言を覚えていたから、これが彼を救ったといっている。罪に攻められたら、十字架の出来事を思い出せ。そして自分の罪を認め、悲しんで、主イエスによる罪のゆるしを乞い願え(祈れ)。そうすれば絶望から救われて生きる力が湧いてくる、といったことだろうか。そういう意味で、教訓、反面教師として、受難節の説教でユダのことを取り上げるのは意味のあることなのだろう。マタイ受難曲も、その説教、祈りの一部を構成するわけだが、このことをバッハはどのように音楽にしたのか。それとも、まったく違った見方をしているのか?
結局、謎は深まるばかり。。。
さて、ユダのことはこれくらいにしておいて、投げ捨てられた銀三十がその後どうなったか、についてのルターの考え方についても簡単に触れておきたい。(つづく)
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