マタイ受難曲徒然(10)~ユダと悪魔・サタン・蛇について考える その8
少々脱線するが、ご存じの通り、ヨハネ福音書には、"Da gedachte Petrus an die Worte Jesu und ging hinaus und weinete bitterlich."はなく、ヨハネ受難曲の中で加えられたものである。マタイ、マルコ、ルカの三つの共観福音書にはいずれにもあるのに。共観福音書に合わせたのか、それとも、この言葉が「悔い改め」には欠かせないと考え、どうしても入れたかったのか。あとのアリアやコラールを見ると、マタイ、マルコではなく、ルカから持ってきたような気もする。「主は振り向いてペトロを見つめられた。(新共同訳)」はルカにしかないのだ。
この後のテノールのアリア"Ach, mein Sinn,"は、マタイ受難曲の"Erbarme dich, mein Gott,"とは少々異なり、まだ罪の痛みにさいなまれ、悩み、苦しんでいる状態を表しているような気がする。しかし、続くコラールにおいては、主のまなざしによって「まことの悔い改め」へと向かうことができたことを歌っている。「まことの悔い改め」は神の愛によってもたらされるという考え方に沿っている。さらに信徒たちには、罪の痛みにさいなまれ、悩んだ時には、神の愛を信じて祈りなさい、そうすれば「まことの悔い改め」に至り、心が慰められる、という歌詞のように感じる。
マタイ受難曲は「まことの悔い改め」の手本(ペテロ)と悪い見本(ユダ)を示し、ヨハネ受難曲はどのようにして罪の痛みにさいなまれた状態から「まことの悔い改め」に至る方法を示しているのではないか。
ちなみに、ユダが銀三十を返したことや自殺についてはマタイ福音書にしかない。マタイ福音書では、「悔い改め」という点に関するペテロとユダの比較がより強調されているように思える。
ペテロの否認というのは、4つの福音書のすべてに共通の話であり、このような例は実は非常に珍しい。それだけ重要で、原始キリスト教会の中でも共通の認識があったのではないか。ちなみにピラトによって裁判にかけられることや十字架にかけられることは共通としても、その書きぶりはかなり異なる。イエスの最後の言葉ですら、福音書によって異なるのだ。
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