ロ短調ミサ曲(14)~ルターにおける「霊」「魂」「身体」その6
ミサ曲の歌詞を読んでいると、いわゆる「躓き」がしばしば起きる。つまり、人間の理性ではとらえられないことだらけなのだ。
「私は信じる」という信仰告白であるニカイア信条でさえ、例えば、「すべての世に先立って父から生まれ」とか「父と同質であって」とか「聖霊により、おとめマリアから肉体を受けて人となり」とか、「三日目に復活し、天に昇られた」とか「聖霊は父と子から出て」とか「死人の復活と来たるべき世の命」(ルター派の一致信条書の訳 聖文舎)とか、理解不能なことが並べられている。
ルターが、まだ科学技術が未発達で進化論も登場する前の500年前ですら、「処女受胎」とか「復活」というのは信じることが難しいと述べているくらいである。まして、現代人には受け入れることは難しいのではないか。前述したように「理性は神的な事がらに関与するには、あまりに弱い」とルターが述べているとおりである。となると、やはり「霊」の働きが必要となる。「霊は、人間の最高、最深、かつ最も貴い部分である。これによって人には理解しがたい、見えない、永遠なるものを把握する。」 このことを通じて、理解できないことを信じるようになるというのである。信仰告白し、洗礼を受け、聖餐にあずかる、そして礼拝に出席して神のみ言葉(およびそれをあらわした音楽)により、霊が高められ、魂を揺り動かし、信じ難いものを堅く信じるようになるということであろうか。
ところで、日本では、しばしば「クリスチャンでなくてもバッハの音楽を味わえるか」という議論が巻き起こる。非クリスチャンは、バッハの音楽はクリスチャンに限らず理解できるし、楽しめるような普遍的な価値がある。といい、クリスチャンは、そういう面は否定しないが、クリスチャンであること、すなわち、信仰がある(信じている)からこそバッハの音楽から受け取れるものもある。という。
このことをルターの三分類に当てはめて考えると、クリスチャンはまさに「霊」でバッハの音楽を受け取っているといえるのではないか。バッハ自身が宗教曲を作曲する際にも「霊」の働きがあったと考えられるので、まさにバッハと聞き手なり演奏家なりの「霊」が神を通じて呼応しあう状態になっている。クリスチャンでなくても、「理性」、「魂」で受け取れるものはすくなからずある。それでも十分に価値はある。しかし、バッハの音楽によるメッセージは「霊」に働きかけることにこそその本質がある、と考えれば、おのずと違いを認めざるを得ないのではないか。個人的には、受け取るものの本質的な違いがあっても、それはそれでいいし、その違いをお互いに受け入れ、尊重することが大事だと思う。どちらがより深く理解し、味わえるかなどと言って競うような問題ではない。
私自身は、「イエス・キリストが私たちの罪をあがなってくださった。」「神はいつも私たちと共にいて、私たちを見守り、励ましてくださっている。」と思いながらバッハの音楽を聴くと、その気持ちがますます豊かになっていくのを感じずにはいられない。
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