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2016/10/18

ロ短調ミサ曲(13)~ルターにおける「霊」「魂」「身体」その5

さて、マタイ受難曲の、ユダの死の部分のバスとヴァイオリンのアリアというのは、ルターのこのような考え方、文脈の中でどう解釈すべきなのであろうか?特に、「wirft euch der verlorne Sohn zu den Füssen nieder!」というのをどう理解すればよいのか。「der verlorne Sohn」は、しばしば「放蕩息子」と訳され、ルカ15.11-32のいわゆる「放蕩息子のたとえ」と関連付けられている。そしてルカ福音書では放蕩息子はゆるされているのに、なぜマタイ受難曲では放蕩息子はゆるされていないのか、という疑問が呈されている。極言すれば、意味不明のまま演奏されているといってもよいくらいだろう。しかも、この曲自体の評判もErbarme dichと比較して決してよくない。蛇足扱いだ。2オケのソリストやバス歌手にとっては、難しい割には報われない、という少々気の毒に思える曲である。しかし本当にそんなに意味の分からないようなアリアなのだろうか?

本題に入る前に、このアリアの私なりの位置づけを整理してみたい。バスが歌うこのアリアは、ユダが歌っているのか、しかしユダはすでに死んでいる。死人が歌うはずがない。それではいったい誰が歌っているのか?そんな議論がある。しかし、私は歌われている内容が大事なのであって、だれが歌っているかということは問題にならないと考えている。つまり、このアリアは、先立つRecitativoの「Und er warf die Silberlinge in den Tempel, hub sich davon, ging hin und erhängete sich selbst.」を解釈したアリア、銀貨を返し、首を吊った時のユダの魂の状態を説明したアリアだと思っている。

実は、ルター訳聖書(1545年)のルカ15.11-32には、「der verlorne Sohn」という言葉自体は出てこないが、「verlorne」という言葉は32節の「Er war verloren / vnd ist wider funden.」に出てくる。他にルカ15.4で「vnd hin gehe nach dem verlornen」といういわゆる「見失った羊のたとえ」の箇所である。また、ルカ19.10 「das verloren ist.」とか。いずれも、「悔改め」に関連した記述であり、神から離れた状態を指していると思われる。大事なのは、「verloren(放蕩した)」ことではなく、むしろ「vnd ist wider funden.」のほうである。ルター派の考え方に沿って言えば、「悔改め」は、「痛悔」と「信仰」ということになるのだが、ユダは「痛悔」すれども「信仰」なしの状態であり、真に悔改めたとは言えない。いまだ人間の浅知恵に頼る「高慢な者」にとどまっている。つまり神のところには戻ってきておらず、見つけられていない状態だ。そして、ユダ本人はそのことに最後まで気付かないまま死んだ。

そうやってバッハのアリアの歌詞を改めて読むと、「Erbarme dich」に比べるといかにも高慢で驕り高ぶった歌詞だ。「金返したんだからいいだろう!文句あるか!さっさとイエスを返せ!」くらいにすら感じる。「自分の義」というのは所詮はそんなものだ。これが信仰あつきクリスチャンなら決してこんな言い方はしないだろう。少なくとも、神に祈るはずだ。「神よ、愛するイエスを私のもとから離れさせないでください。」とか。一般の人から見れば、「イエスを返せ!」というのはよいことをいっているように思えるのだが、ルター的にはとんでもない高慢で不信仰な言葉なのだ。きっと、ピカンダーはそれがわかっていてわざとこういう歌詞を書いただろうし、バッハもまた同じ。毎週説教とカンタータでこのような教えを聞いていたら、教会に集う会衆も何の疑いもなくこの歌詞と音楽を受け入れたのではないか。

また、「der verlorne Sohn」といってはいるが、「vnd ist wider funden.」とは言っていない。神のことなどかけらもない。まさに不信仰の極みである。しかし、神はそんな不信仰極まりないユダさえ実は愛している。本人が不信仰がゆえにそのことに気が付かず絶望し自ら死んだだけだ。「後悔先に立たず」とは言えても、「悔改めが遅すぎた」わけではない。そもそも悔改めしたとは言えないのだから。

ルターは、詩編第2回講義の第一編の講解において、「豚の餌を追い求める者(ルカ5.16放浪息子の放浪中の状況)」について、「自分が懸命に清く生きていると思い、不敬虔のうちに死ぬからである。そして彼らの法が彼ら自身に最大の不義と不正を積み上げてきたことを、彼らが最後になって悔いても空しいであろう。なぜなら彼らは「主の律法を口ずさむ」ことがないからである。」と、まるでユダのことを言っているかのように述べている。「主の律法」は「神のみ言葉」「神の義」といってよいだろう。そしてそれは、「われわれ自身の力に絶望してキリストへの謙虚な信仰をとおして天から与えられるように願い求められるべき」意思によって常に口ずさむものである(詩編119.117等について)とも述べている。

このアリアでは、「悔改めゆるされた放蕩息子」というよりは「豚の餌を追い求める者」としてのユダの魂の状態(私たちも陥るかもしれない)について歌っているというほうが、あの音楽にふさわしいのではと思っている。高慢で、最も愚かで不敬虔な「金を返すという正しい行いさえすれば・・・」というとんでもない思い違い、サタン(悪魔)のみせかけの勝利、を曲にしたのだとしたら、そりゃ、「Erbarme dich」のように感動はしないだろうな。

「高慢」、「愚か」、「不敬虔」、「不信仰」・・・などといったルターのユダに対する評価に照らし合わせて、音楽による聖書解釈としてバッハのアリアの音楽を改めて聞いてみると、なるほどな、そういうことだったのか、となんとなくわかってきたような気がする。

ただし、単にユダのことを非難するだけではない。私たちも油断すれば常にユダになりうるのだということを肝に銘じさせたうえで、イエス・キリストが十字架上でいかに「孤立、無力、絶望」と戦い、そして真の勝利をおさめ、「私たちの罪のあがない」を成就させたのか、というマタイ受難曲の本題に入っていくのである。

なお、これはあくまでルター、及びルター派のユダの裏切り、自殺に関する信仰義認論の立場からの聖書理解であって、カトリックやプロテスタントの他の宗派では全く異なる解釈になる可能性がある。また、現代的な解釈もありうるだろう。そうなった時に、果たしてこのアリアはどう解釈されるのであろうか?いずれにせよ、意味不明、無意味なアリアというレッテルが貼られることだけはないよう望むのみである。

ということで、だいぶ脱線したが、バッハの宗教曲を演奏するにあたって、このルターの説明を知っておいて損はないなと思ったので、長々と紹介した。

次回は、ミサ曲においてこのことがどう関係してくるのかについて考えてみたい。

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