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2016/10/17

ロ短調ミサ曲(12)~ルターにおける「霊」「魂」「身体」その4

しかし、第三編ではこのあと大事なことが続く。4節「しかし、主よ、あなたはわたしを支えてくださる方、わたしの栄光、私の頭を高く上げてくださる方です。」に関し、ルターは次のような解説をしている。

「多くの「苦しめる者」に対して「支えてくださる方」を、多くの「敵対して立ち上がる者」に対して「栄光」を、「冒涜する者」また「嘲弄する者」に対して「頭を高く上げてくださる方」を対置する。このようにして彼はたしかに人間たちの前では、また人間たちの考えによれば孤立しているが、しかし、神の前では、また霊によれば決して孤立しないで、きわめて手厚く保護されている。(中略)このように彼は外見は、また人間の目には無力であり抑圧されているが、しかし、神の前では、また霊においては最も強い。それゆえ彼は信頼をもって神の力を使徒とともに誇る。」

また、
「それゆえこの節の言葉は事前の言葉ではなく、恩恵の言葉であり、自由意思の言葉ではなく、最も強められた霊の言葉である。信仰は嵐と死と地獄の闇をとおして神を見るので、見捨てる神をも「支えてくださる方」として認識し、迫害する神を援助者として認識し、糾弾する神を救い主として認識する。」 (引用終わり)

「彼」というのは、本来は詩編作者であるが、ルターはここで十字架につけられたイエス・キリストの姿に重ね合わせている。「神よ、神よ、なぜ私をお見捨てになったのか」(マタイ27.46)というイエスの最後の叫びは、「見捨てる神をも「支えてくださる方」として認識し」信頼しているということの表れではないか。

「人間たちの考えによれば孤立しているが、しかし、神の前では、また霊によれば決して孤立しない。」にもかかわらず、ユダは「人間たちの考えによれば孤立」ということで絶望し、「神の前では、また霊によれば決して孤立しない」ということを認識できなかったので絶望から抜けだせなかった。「神の真実と義」に逆らい、「自分の良心の家において「自分の義」によって行動した結果「死」に至らしめたということであろうか。要は、人間の浅知恵に頼って驕り高ぶるのではなく、神の前に出て(霊)神にゆだねよ、ということなのであろう。まさに、アウグスブルク信仰告白弁証第12条でいうところの「信仰」であり、「痛悔」と「信仰」がそろって初めて「悔改め」といえるということにつながるといえよう。

私は神学者ではないので、厳密なことはよくわからないが、これらは、ルター神学の特徴とも言われる「信仰義認論」「信仰のみ」のまさにコアとなる考え方ではないのかと思う。

「霊」と「魂」というのは、ルターにおいてはこんな風に使われている。

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