ロ短調ミサ曲(10)~ルターにおける「霊」「魂」「身体」その2
今回は、「霊」「魂」「身体」に関するルターの説明が、バッハのカンタータや受難曲の理解にどのように関係するかについて考えてみたい。
実際に、「魂(Seele)」という言葉がタイトル(冒頭合唱の冒頭歌詞)に入った曲、例えば、BWV10,35,69(69a),78,143,170,180,186といった曲、そして同様に「霊(Geist)」が入った曲、例えば、BWV35,115,165,181の歌詞を、ルターの説明に照らして読み込んでいくと、なるほどそういうことだったのか、ともやもやしたものが一気に晴れたような気にすらなる。
BWV170は、サタンが人間の「霊」に棲みつき、「魂」が憎悪・怒り・復讐や恐怖に襲われた状態から、神によって「霊」がきよめられ、「魂」が愛や喜びに満ち溢れ、安らぎを得た状態に導く内容のカンタータであると考えられる。
BWV10は、いわゆるドイツ語Magnificatであり、「私の魂は主である神をあがめ」という歌詞から始まるが、ルターのこの「霊」「魂」「身体」の説明はずばり「私の魂は・・・」及びこれに続く「私の霊は・・・」の説明である。もちろん、Magnificat BWV243についても同様である。証拠はないが、ルターのMagnificat講解を知っていたであろうことは容易に想像できる。
(以前書いた記事も参照)
http://bcj.way-nifty.com/kogaku/2007/09/bach_magnificat_3c51.html
BWV35は、「Geist」と「Seele」の両方が出てくるが、これは、聖書に書かれているイエス・キリストの奇跡が人の理性ではとらえられない(理解できない)、見えないことであり、「霊」によってとらえられ、そしてそれによって「魂」が働く(つまり信じる)というようなことが前提になっていると思われる。
ちなみに、BWV35も170もアルト独唱曲である。またタイトルに「魂」は入っていないが、BWV54は、サタン、悪魔を「霊」から追い払い、「魂」が本来の役割を果たせるようにしろ!というような趣旨のカンタータとも言える。
バッハのカンタータや受難曲においては、アルト独唱は「魂」をあらわすというようなことがしばしばいわれているようであるが、まさに神によってきよめられた「霊」が理性の光を支配した状態での「魂」を表すにふさわしいのではないか。また、ヴァイオリンは人の弱さをあらわすともいわれるが、これは「理性」の弱さであり「魂」の弱さである。アルト独唱とヴァイオリンの組み合わせといえば、まっさきにマタイ受難曲の「Erbarme dich」を思い出すが、ペテロの「理性」「魂」の弱さがゆえにサタンの奴隷となり、神を信じず、三度「知らない」といったことに対し、神がペテロの「霊」に働きかけ、それによって神を思い出し(イエスの言葉を思い出し)、サタンを追い出し、「魂」が揺さぶられ、(身体に働きかけ)激しく泣き、神に嘆願した、というまさにこのルターの「霊」「魂」「身体」の説明がぴったり当てはまるではないか。(続く)
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