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2016/09/27

ロ短調ミサ曲(8)~まだ脱線、ルター訳聖書における「eleison」その3

「とめておく」といいながら、再び、詩編第6編に戻る。

第7節「私は夜通し私の床を水で洗い、涙で寝床を浸しています。」
第9節「悪を行うすべてのものは私から離れよ。主が私の泣く声をお聞きになったからです。」
第10節「主は、私の願いを聞かれた。私の祈りを主は受け入れてくださった。」
(七つの悔改めの詩編 俊野文雄訳 徳善義和改訂 LITHON )

ここで、ルターは、主が、泣き、嘆く者たちの声は喜んでお聞きになるお方だと述べている。加えて、泣くことは行いに先立ち、苦難を味わうことは、一切の行為にまさる、とも言っている。ちょっと待て!これって、ひょっとしてカンタータ第12番「泣き、嘆き、憂い、怯え」の合唱の歌詞の内容ではないか。しかも、これはロ短調ミサ曲のCrucifixusの原曲だ!!!

ペテロは三度「知らない」といった後に「外に出て、激しく泣いた」が、おそらくこのような状況で神に祈り、神の恩恵、つまり、神はいつも私のそばにいてくださり、励ましてくださるということを感じることができ、生きる勇気を与えられ、死に至らずに済んだのだろう(マタイ福音書には具体的に描かれていないが、ピカンダー及びバッハが付加したアリアとコラールは、そういう解釈をしたのではないか)。

これらのことから、ルターにとって、「主よ、憐れみたまえ」と祈るということがどういうことなのかを、なんとなくイメージできるのではないか。

ついでのユダのことも。。。
これに対し、ユダは、後悔し、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました。(新共同訳)」といったものの、神に向かっての願い、祈りがない。神に立ち返ることができず、神が共にいてくださることを感じることができず、生きる力を受け取ることができず、死に敗れたのだ!

ト短調ミサBWV235の「Kyrie eleison」の原曲となったカンタータ第102番「主よ、汝の目は信仰を顧るにあらずや」の冒頭合唱は、エレミア書5.2によっているが、まさにこのユダと同じ状況に陥っている。

エレミア書5.2(一部抜粋)
彼らを打たれても、彼らは痛みを覚えず
彼らを打ちのめされても彼らは懲らしめを受け入れず
その顔を岩よりも固くして
立ち帰ることを拒みました。
(新共同訳)

カンタータでは、この後、ひたすら、神に立ち返ること、悔い改めることを促す曲が続く。

そして、この悪に支配されたどうしようもない状態を歌った合唱が、ミサではなんと「Kyrie eleison」に生まれ変わる。全く正反対の状態だ。しかし、こんな状態から悔い改めて神に立ち返ることができた時の祈りだと考えれば、「なるほどな」という気もしないでもない。カンタータは「使用前」、ミサが「使用後」みたいなものだ。

これについて、ルター派の信仰告白の論拠を述べているともいえるアウグスブルク信仰告白弁証では次のように述べられている。 「なぜサウルやユダや同類の者たちが、いたく痛悔しても恵みを得ることができなかったのかと問う者があれば、ここでは信仰と福音について答えられるべきである。すなわち、ユダは信じていなかったし、キリストの福音と約束によっては強められなかった。つまり、信仰がユダの痛悔とペトロの痛悔との違いである。」「ユダとサウルの痛悔はなんの役にも立たなかった。彼らには、キリストのゆえに与えられる罪のゆるしを把握する信仰がなかったからである。ダビデとペテロの痛悔は役に立った。なぜなら彼らには、キリストのゆえに与えられる罪のゆるしを把握する信仰があったからである。」(徳善義和訳、一致信条書 聖文舎)

「把握する信仰」というところがポイントである。たとえ神が恵みを与えていても、そのことを把握できなければ受け取ることができない。それがペテロとユダの違いだというのだ。

少々わかりにくいが、ルターによれば、悔い改めは、「痛悔、すなわち罪の認識によって良心をさいなむ恐れ。」と「信仰であって、それは福音あるいは罪のゆるしから生じ、そして、キリストのゆえに罪がゆるされることを信じ、良心を慰めまた恐れから解放する。」という二つの部分から成り立つとしている。(アウグスブルク信仰告白(ラテン語)第12条 石居正己訳 同上)。ユダは前者のみ、ペテロは両者そろっていたということであろう。「Erbarme dich」はまさに信仰のアリアであるといえよう。

脱線が過ぎたようだ。Vn弾きの性でどうしてもマタイ受難曲の「ペテロの否認」に向かってしまう。そろそろ本題に戻ろう。「神の名を唱える」そして「祈り」についてもう少し考えてみたい。

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