ロ短調ミサ曲(7)~まだ脱線、ルター訳聖書における「eleison」その2
では、ルターはなぜ詩編全体で「Miserere mei domine, (憐れんでください、主よ)」を「HERR ich mir gncbig, (恵み深くあってください、主よ)」と訳したのであろうか?
第2回詩編講義(1519)において、ルターは次のようなことを述べている。 (引用)「「憐れんでください」という言葉が、この箇所では本来罪のゆるしを意味するのではなく、恩恵あるいは力を意味することを彼らは欲する。罪をゆるすことはしばしば「寛大さ」という語や、(中略)「主は憐れみ深く、また憐れむ方」と言われているような「憐れむ方」という語によって言い表される。恩恵あるいは力によっては、魂が強められ、その結果「私は弱い」あるいは「私は無力である」という言葉とぴったり対応することになる。なぜなら無力は力によって助け支えられるからである。」(第二回詩編講義 竹原創一訳 LITHON)(引用終わり)
そして、「七つの悔改めの詩編」では、「HERR ich mir gncbig, 」について、「これは、私が不安とおそれのうちに消え失せぬよう、あるいは落胆せぬよう、私に恵みを示してください、ということである。」(七つの悔改めの詩編 俊野文雄訳徳善義和改訂 LITHON )と説明している。
第2回詩編講義では、この詩編6章全体について、「死と地獄の激しい苦悩によって十字架を負わされているものにふさわしい。なぜなら言葉自身もそのことを指示しているからである。(中略)苦悩している者の心の動き、求め、呻き、言葉、助言がどのようなものであるかが、この詩編では説明される。」(同上)
さらに、10節について「「願い」はヘブライ語では、本来憐れみや恩恵を願い求めることを意味する語である。それゆえ、これは「主よ、私を憐れんでください」(中略)と呼応する。そこでは恩恵と力が願い求められているとわれわれは言った。他方、「祈り」は災いを免れる願いのうちにある。」(同上)と述べている。(なお、新共同訳では「祈り」は「嘆き」とされている。)
罪の苦しみ、痛みを罪のゆるしで救う、というより、もう少し広い苦しみ、痛みに対する神の恵みを指しているのであろうか?詩編がイエス・キリストが十字架につけられ罪をあがなう前に歌われたからか・・・。ルターが旧約聖書をドイツ語に翻訳するに際して、ギリシャ語やラテン語だけでなく、ヘブライ語を学び、ヘブル語の単語の意味から導き出した可能性もある。
いずれにせよ、「死」を覚悟しなければならないような経験(罪の苦しみを含む)したものでなければ決してわからないような苦しみ、不安、そしてそういうときに神がそばにいてくださっていることを思い出し、神へ祈り、そして神の恩恵の受け取り(感じ取る)、生きる力が与えられる。そういうものをこの詩編の祈りでは言い表しているのだろう、というあたりで、とりあえずとめておくのがよかろう。私自身、そこまでの苦しみを経験したことはないので。。。
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