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2012/07/08

ヨハネに悩める16~第13曲(1)ペテロの嘆き

ペテロの否認のアリア、ヨハネとマタイとでは、弦楽器の伴奏という共通点はあるものの、その雰囲気は全く異なります。ヨハネは「ああ、わが想いよ!」から始まり、マタイは「あわれみたまえ、主よ!」から始まる。両者は全く別のことを言っているというよりは、一連の流れで考えるとわかりやすいのではないかと思っています。苦難があって祈りがある。

そこで、罪、そして苦難と悔い改めというところからこのアリアの歌詞と音楽を考えてみたいと思います。

私は、ルターの「贖宥の効力についての討論の解説」というのに注目しました。ルターの宗教改革といえば教科書などにも必ず出てくるいわゆる「贖宥状(免罪符)」の効力に疑問を持つ考え方について述べたもので、「95ヶ条の論題」ともいわれる有名な文書です。単に贖宥状や教皇の権威を否定するのではなく、「悔い改め」とは何か、そして十字架と罰について神学的に徹底的に追及する中で疑問を抱いたものだといえます。

そして、この中には、第13曲にも出てくるホセア書10.8の表現も登場します。ルター著作集には、巻末に「聖書索引」がついているのですが、これでホセア書10.8を探していたら、この文書にたどり着き、読んでいるうちに、第13曲に通じるいくつかのヒントが見えてきたのです。

以下、ルター著作集第1集第一巻(聖文社 藤代泰三)を引用します。

まず、ルターは冒頭に「悔い改めよ」というイエス・キリストの言葉の意義を解題します。

「命題1 私たちの主であり師であるイエス・キリストが、「悔い改めよ」と言われたとき、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである」

ここから始まって、なんと95もの命題について解題します。

「命題95 そしてキリスト者は、平安の保証によるよりも、むしろ多くの苦しみによって、天国に入ることを信じなければならない」

さて、ヨハネのこのアリアの歌詞については、命題14~17にヒントがあるのではと思います。特にホセア10.8について述べている命題15に注目しました。

「命題14 死に臨んでいる人たちの不完全な信仰や愛は、必ず大きな恐れを伴う。そして愛が小さければ小さいほど、恐れは大きいということになるであろう」

「命題15 この恐れとおののきは(他のことはいわずとも)、それだけでも十分に煉獄の罰をなしている。なぜなら、それは絶望のおののきに最も近いからである」

ここでルターは、「聖書は、地獄の罪は動揺、恐れ、おののき、逃走であるとしるしている。(中略) 確かに聖書のこれらと他の箇所において、恐れ、おののき、恐怖、憂慮、ふるえが、不敬けん者らの刑罰として表現されている」とし、さらに福音を信じない者は(神の罰から)逃げるが、のがれられないで、苦悩の中に捕えられるであろうと述べています。そして、ホセア10.8が登場します。

「そうでなければ、かの声「山よ、あなたがたは私たちの上に倒れよ、そして丘よ、私たちをおおえ」はどこから来るのか。またかのイザヤ2章に「あなたは恐るべき主のみ顔とその尊厳の栄光とから≪のがれて≫岩をつかみ、地の穴に中に隠れなさい」とある」「いかなる罰も、逃避あるいは恐れによって、克服されない。なぜなら地獄を恐れる者はそこに下っていくとのことわざは真だからである」

まさに、このアリアの歌詞と対応しています。煉獄と地獄の問題はさておき、信仰が不完全であることで、動揺、恐れ、おののき、逃走という罪に対する刑罰を受けるが、どんなに逃げてものがれられず、もはや行き場がない。山、丘が崩れて生き埋めになってでも土砂に守ってもらうことでしか逃れられない。ペテロはまさに信仰が不完全な状態になったわけであり、それゆえ、地獄の罪を感じることになった。

さて、命題95に「むしろ多くの苦しみによって、天国に入ることを信じなければならない」とありますが、これも重要な考え方です。ペテロがこれほどの苦しみを感じたからこそ、ペテロは後に赦されたのであり、「私たち」も苦しまなければならない、というのが、ルターの「十字架の神学」の考え方のようです。

「13」でご紹介した「キリストの聖なる受難の考察についての説教」の続きにはこんなことが書いてあります(聖文社ルター著作集第1集第1巻福山四郎訳)。

「第6、さて見るがよい。一本のいばらがキリストを刺すならば、十万本以上のいばらがあなたを刺してしかるべきである。否、永久に、もっとひどく刺してしかるべきであろう。一本の釘がキリストの両手もしくは両足を貫き苦しめるのならば、あなたは永遠にそのような、否、もっと激しい針の苦痛を受けてしかるべきである」

このようなことをいろいろ考え併せて、ルターは「ほんとうの完全な悔い改めとは、このことである。すなわち、罪におびやかされ、卑しくされて、信仰により主イエスとその苦難の中に慰めを見いだすことことである(オリブ山で ルターの「主の受難の説教」 石橋幸男訳聖文社)」と述べています。

では、バッハの音楽はどうなっているのでしょう?(つづく)

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