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2012/07/04

ヨハネに悩める14~第11曲(2)マタイと比較する

このP.Gerhardtのコラール、同じ第3節がマタイ受難曲の第37曲にも登場します。両方の受難曲に共通しているのはこのコラールだけです(ヨハネ第2稿の冒頭合唱とマタイ後期稿の第1部終曲合唱の関係を除いて)。マタイでもやはり大祭司の館でイエスが唾をかけられ、頬を殴られた場面。ただし、マタイでは、「誰が打ちつけたかいいあててみよ!」という合唱に応える形でこのコラールが登場します。ヨハネではこの問いかけはありませんが、マタイと同じような感覚で考えてよいのではと思います。ヨハネの方がより不協和音を大胆に使っていると思われます。

余談ですが、鈴木雅明さん&BCJは、「あなたは罪人ではない(Du bist ja nicht・・)」の部分で独特の表現を用いています。4分音符にくさびをつけているように思えます。程度は違いますが、ここ数年の演奏ではだいたいその方向で演奏していますね。どのような解釈からこのような演奏が出ているのか、残念ながらその理由はわかりません。

さて、ヨハネでは続けて第4節が歌われます。一方、マタイでは第4節は歌われず、第10曲(最後の晩餐で誰が裏切るかを弟子たちが「私ですか?」とイエスに聞いている場面)で、第5節が歌われます。第4節では「私がイエスを打ちつけているのです」。第5節では「私が罰せられなければならなかったのです」。という内容なのですが、この場合の「私」がペテロを指すのか、それとも私たち一人一人を指すのか。それとも、「私たちの罪の象徴」としてペテロの罪(否認)が取り上げられているのか。よくわかりません。ヨハネでは、ペテロの否認の途中でイエスの大司祭邸での尋問の場面が出てくるのですが、マタイでは、大祭司邸での尋問の後にペテロの否認の場面が出てきます。こんな違いも参考になるのでしょうか?

ここで、私はちょっと戻って第7曲のアリアの歌詞を思い出します。この歌詞の元になっているイザヤ書第53章5節というのは、まさに第11曲の第3節、第4節の歌詞の内容に重なるところがあります。イザヤ書のこの部分をルターはとても高く評価していて、「確かに、これは最も魅力のある、慰めに満ちた受難の説教ではないか。まことに、新約聖書の中には、これにまさる説教ができた使徒はひとりもいなかった。」とまで述べています(ルターの「オリブ山で-主の受難の説教、聖文社、石橋幸男訳)。受難から生まれる恵みのエッセンスが、7,11曲に凝縮されているともいえるのではないでしょうか。第4節は「私の罪をあがなうために・・・」という気持ちを表せるか。なかなか難しいです。

いよいよペテロの最後の否認です(つづく)

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