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2012/06/22

ヨハネに悩める11~第8,9曲喜びと自信の陰に潜む悪魔の影

いよいよ、前半も佳境へ。

ペテロともう一人の弟子は、逮捕されたイエスの後に従って大司祭邸に入っていく。この時のペテロの気持ちを信徒の気持ちに置き換えて歌っていると思われるのが第9曲のアリア。ペテロは、耳そぎ事件でイエスから怒られた(第4曲)にもかかわらず、めげずに使命感に燃えてさらに、絶対に自分はイエスを裏切らないという自信に満ちてイエスの後を行く。自らの信仰心については一点の曇りもなければ不安もない。マタイでは、イエスから三度知らないというだろうと指摘されてそれをかたくなに否定したという記述がありますが、ヨハネにおいても、そういう記述がないものの、やはり同様でしょう。この信仰心があったからこそ、罪を犯しても、あとで悔い改めて、そして恵みを受けることができたのであって、そこがユダとの大きな違いだというのがルターの解釈です。

おおよそ受難曲にはふさわしくない明るく喜びに満ちたアリア。しかし、そんなアリアにバッハは少しだけ悪魔が付け入ることのできる「心の隙」を混ぜている。それが、中間部の半音階的に上がるところ。歌詞でいえば「zu schieben」のところです。どんなに信仰心が強くても、そういうことに慢心して油断すると、すぐに悪魔がやってきて、罪を犯させる(信仰が揺らぐ)。そんな時にもぜひ気を確かにもって信仰心が揺らがないように導いてほしい。といったところでしょうか。ペテロが否認してしまったのは、慢心、油断、弱さがゆえで、そこには悪意はない。偶然が重なって悪魔が付け入る隙が生まれ、不運にも信仰心が揺らいでしまい、重大な罪を犯してしまった。そういうことは誰にでも起こりうる。ルターはそう考えていたようです。このアリアは、そんなルターの考え方を反映しているようにも思えます。

実は、この第9曲は、第4稿では歌詞が少々異なっていて、この半音階のところは、「geduldig zu leiden」というようになっています。こちらの方がひょっとしたら半音階の意味が分かりやすいかもしれません。

それにしても、バッハはヨハネで半音階の動きを実に多用しています。これらの半音階をどう解釈し、どう演奏するかというのは、ヨハネ演奏の一つのカギになるようにすら思えます。半音階の動きは、バッハに限らず、この時代広く用いられている、いわゆる「決まり文句」のようなものですが、これを実に巧みに使っているな、一味違うな、と改めて感じます。

さて、当時の聴衆(といおうか信徒)は、当然ペテロの否認の話は知っていますので、その後の話の展開もすべて知ったうえでこのアリアを聞くことになる。となると、前述した半音階部分の意味するところも、自ずとわかったのではないか。そして、気を引き締めて否認の場面を迎える。このアリアはいわば否認の場面の導入部、予告編みたいなもの。長年このアリアの明るさや半音階の持つ不安定さの意味が良くわからなかったのですが、ルターの説教を読んで、なんとなくわかってきたような気がします。

ルターの解釈については、あとで改めて触れようと思います。

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