« ヨハネに悩める7~第1曲(4) | トップページ | ヨハネに悩める9~第4,5曲ペテロ耳そぎ事件 »

2012/05/24

ヨハネに悩める8~第1曲(5)父たる神

「三位一体説」において通奏低音が担う「父たる神」のイメージを調べていたら、ルターの説教の中にヒントになりそうなものが見つかりました。

1519年ですから比較的若いころの説教なのですが、「キリストの聖なる受難の考察について」という、まさにそのものズバリのタイトルのものです。

以下、聖文社ルター著作集第1集第1巻に収録された福山四郎訳をご紹介します。

ルターは、第四で、「キリストを仰いで、その受難に心底から恐愕し、良心がたちまち絶望におちいる人、キリストの受難を正しく考えるとはそういう人々のことである。」と述べます。続いて、「この恐愕はあなたが罪と罪人とに対する神のきびしい怒りと仮借なき峻厳さとを見るところからくるものでなければならない。」 ここに、一つのヒントがあるように思えます。「驚愕」ではなく「恐愕」と訳されているところがミソです。さらに「御子が罪人のためにかくも重い贖罪を果たさないうちは、この最愛のひとり子に対してさえ、罪人の放免を許したまわないほどにきびしいかたなのである。」 とにかく、「きびしいかた」なのです!

今度は、御子であるキリストに目を向けます。

「かくも広大無辺な人格が神の御心に服し、そのために苦しみ、死にたもうからには、そこには言語を絶する耐えがたいほどのきびしさがあるにちがいない。」と、再びきびしさにふれています。そして最後に、「父の永遠の知恵なる神の御子ご自身が苦しみたもう事実をあなたが真に深く考えるならば、あなたは恐愕せずにはおられまい。考えることが深ければ深いほど、恐愕の度はますであろう。」 としめくくっています。

ヨハネ受難曲の第1曲というのは、信者を「キリストの受難を正しく考える」方向に持っていく役割を果たしているとも考えられなくもありません。もちろん、いきなり受難曲から礼拝が始まるわけではないのですが、第1曲を聞いて、改めてキリストの受難に心を向けることができたのではないでしょうか。このように考えると、第1曲に、このルターの考え方が反映されている可能性もある。とすると、通奏低音(特に8分音符のきざみ)があらわす「父たる神」はまさに「きびしさ」を表すものだといえるのではないかと思います。

さらに、バロック時代には、同じ音が続くというのは、それ自体が緊張をもたらすものとされています。ヨハネの第1曲の通奏低音は、gの音が8分音符でかなり長い間刻まれ続きます。合唱が入ったところからはなんと12小節も同じ音です。これだけでも緊張感が伝わってくるはずです(伝わってこなければ、それは演奏が悪い!!)。

ここでは、8分音符を刻んでいるうちは、きびしく緊張感のある表現が通奏低音には求められるのではないかと思います。「受難のきびしさ」というのも、この曲のテーマのひとつでしょう。

実は、このルターの説教は、これからも頻繁に登場します。どうしてここでこのコラールの歌詞が使われるのか、などというのも、徐々にわかってきます。(つづく)

|

« ヨハネに悩める7~第1曲(4) | トップページ | ヨハネに悩める9~第4,5曲ペテロ耳そぎ事件 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/32419/54784808

この記事へのトラックバック一覧です: ヨハネに悩める8~第1曲(5)父たる神:

« ヨハネに悩める7~第1曲(4) | トップページ | ヨハネに悩める9~第4,5曲ペテロ耳そぎ事件 »