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2012/05/08

ヨハネに悩める3~第1曲(1)

第1曲だけあって、この曲の解説は数多いですし、多くの方がそれぞれのお立場から様々なことを語っています。ヨハネ福音書の冒頭「初めにことばがあった」や創世記の天地創造との関連性、三位一体・・・。しかし、正直その大部分は私には難しすぎてピンとこない。解説から演奏のイメージがさっぱりわいてこないのです。

そんな時、ルターの「ヨハネ福音書第1章の説教」を読んで、ある意味でホッとしました。

三位一体の唯一の神について述べるくだりで

「このことは信じなければならない。理性がどんなに賢く明敏であっても、理性をもってしては、だれも(このことを)理解したり、把握したりはできない」

また「初めにことばがあった」について

「この世の創造の前に、神の中にことばがあり、そしてそのことばが神であるということを、人間の理性や知力で推し測り、掴もうとしても無駄である。なぜなら、それは理性から由来することではないからである。」

「信じようとしない人、あるいは自分の五感や理性で探り出そうとして、信じる前にまず理解しようとする人は、常にやり損なう。」

(いずれもルター著作集第2集第6巻(Lithon)より)

理解できなくても落ち込む必要はないんだ。それよりもっと大切なことがあるんだ、と・・・。

このことをバッハの音楽に当てはめてみるとどうなるのでしょう?人間の理性や知力で理解しえないものを、音楽の力で伝えようというようなことはなかったのでしょうか?バッハの音楽は知的であり、当時の神学、数学、哲学などを総合した芸術という見方もありますが、一方、理性でこれらを分析して理解するだけでは、それがどんなに精緻なものであったとしても、バッハの音楽をとらえきれない、むしろ大きな過ちを犯すことにならないのでしょうか?

とりわけクリスチャンでない日本人がバッハを演奏する際に「信仰は必要か否か」といった議論がなされるケースが少なくありませんが、勉強熱心ではあるものの、信仰なくしてバッハの作曲技法や歌詞の解釈にばかり目を奪われてしまうとき、果たしてルターが述べているようなことに陥りはしないのでしょうか?

その点、鈴木雅明さんの態度は明確です。「バッハからの贈り物」P.397以下をお読みになられた方ならばおわかりいただけると思います。

ホッとするのもつかの間。このことを真面目に突き詰めると、そもそも自分にバッハの受難曲を演奏する資格があるのか、という根本的な問いに至ってしまうわけで、この一連のブログも「語る資格なし」なのですが、こうした悩みを抱えていると、まず第一曲で大いに躓くわけです。(つづく)

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