ヨハネに悩める4~第1曲(2)主への祈り
第1曲のオーケストラは、父を表すバス、子たるイエス・キリストをあらわす管楽器、そして聖霊をあらわす弦楽器の、まさに三位一体の神を表現するものだ、という解説があります。また、天地創造におけるカオスから天地が分けられる状態をあらわす、という人もいます。歌詞の元のひとつである詩篇8.1からの解説を試みる人もいます。それぞれに深い洞察に基づく解説だと思います。すべてが正しいのかもしれない。しかし、私は、悩んだ挙句、もっと単純に考えてみようと思いました。
「Herr, Herr, Herr」つまり「主よ、主よ、主よ」とおん名を3回呼んでいる。きっとクリスチャンの方なら、これだけですべてを感じ取ってしまうのではないか、と思うわけです。この何気ない呼びかけも、クリスチャンの方にとっては大変重い意味を持つ。
モーゼの十戒の第二戒に
「あなたは、あなたの神の名をみだりに唱えてはならない」
とあります。
ルターによれば、この意味は、「私たちは、神をおそれ、愛さなくてはならない。それは、私たちが、神の名において呪ったり、誓ったり、魔術を行なったり、うそをついたり、だましたりしないで、むしろ、すべての困難に際して、み名を呼び求め、祈り、ほめたたえ、感謝することによってである。」(小教理問答集 ルター著作集第一集第八巻P.574 聖文社)だそうです。また、「あらゆる苦難に際して神に呼びかけること、これが祈りである。(大教理問答集同P.482)」とも述べています。
では「主」とは何か。使徒信条第二条で「私はまたイエス・キリスト、神のひとり子、私たちの主を信じる。」とありますが、このことをルターは「私は神のまことの御子、イエス・キリストが私の主となりたもうことを信じる」といいかえています。「主となる」とは、イエス・キリストが私を罪から、悪魔から、死とあらゆる不幸からあがないたもうたという事実である、ということだそうです。(大教理問答集 同P470)
このことは、ルター派の教会においても、家庭においても長い間子供たちに教えられてきた(大教理問答集、小教理問答集というのはもともと子供の教育のためのものらしいです)でしょうから、「Herr, Herr, Herr」というのを聞いて、きっと当時の会衆は、祈りの中に入ったに違いありません。私たちは、いま苦難の中にいる。罪を犯し、死の恐怖にさいなまれている。私たちの苦難とイエス・キリストの十字架上での苦難を重ね合わせる。しかし、そこには希望がある。だから主のおん名を繰り返し呼び続け、祈る。
そんなことを思いながら、改めて第一曲に戻ると、「苦難の中で神に救いを求める私たち」がオーケストラの前奏を聞いて何を感じるか。そこにこの曲の演奏のヒントが隠されているように思われるのです。不安、おそれ、おののき・・・、そんな気持ちになるのです。しかし、主のおん名を呼ぶことで、徐々にそこには希望が生まれる、喜びがある。1st VnとTenの中間部の最後の音はFis(F#)ですが、これも何か象徴的だな。光が見えたといおうか。。。
これらのことって、頭では理解できても、クリスチャンでなければ真に味わうことはできないんでしょうね。。。
細かく見ていけば、もっといろいろなことが隠されているのがわかるのかもしれないので、こうしたことをベースに、もう少し考えていきたいと思います。
そういえば、余談ですが、ロ短調ミサ曲の最初は、「Kyrie」と3回呼びかけますね。これも「主よあわれみたまえ」という祈りですが、これとヨハネ受難曲の冒頭に何らかの共通性を感じます。
(つづく)
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