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2008/03/11

「ピリオド奏法について考える」を考える

このブログでもっとも検索件数が多いのは、信じられないことに、なんと「ピリオド奏法について考える」シリーズです。きっとピリオド奏法に好意的な人も批判的な人も来るんだろうなとは思いますが、ピリオド奏法って、そんなに知られているのでしょうか?

ということで、私も「ピリオド奏法」でGoogle検索してみました。

予想していた通り私のブログもありましたが、意外というべきかやはりというべきか批判的な記事が多いようです。そして、これはとても残念なのですが、ヴィブラートのことばかり書いてある。そして最後は好き嫌いの次元の話で終わってしまう。ヴィブラートなんて古楽器やっている人にとっては学ぶべきことのホンの一部でしかないのに、あたかもそれがピリオド奏法の本質であるがごとくいわれてしまう。

ヴィブラートについていえば、そもそもニコラウス・アルノンクールが、子供のころ(1920年代~30年代)に生で聞いていた演奏というのは、20世紀半ばからのようなヴィブラートではなかったと証言している。また、その頃は現在の様なスチール弦オンリーではまだなかったことは、日本において当時使われていた楽器が屋根裏物置から発見されるたびに裸のガット弦を張った状態だということからも、ある程度は察しがつく。1920年代を体験した人がまだ現役でがんばっている。決して貧弱な録音だけからなんとか想像できるような遠い昔のことではない。1920年代以前の録音を聴いても、人によってバラバラ。いまの古楽器奏者と同じようなボウイングやヴィブラートをする人もいれば、20世紀後半の「巨匠スタイル」の人もいる。そして、忘れてはならないのは、20世紀はじめであっても、曲によって弾き方をかなり使い分けているということ。ヨアヒムもブラームスの曲とバッハの曲では全然弾き方が違う。そしてロマン派の典型的装飾であるポルタメントを多用する時には決してヴィブラートと同時に使わない、という鉄則をきちっと守っている人もいる。いずれにせよ、19世紀から20世紀はじめにかけてもなおノンヴィブラート奏法が行われていたことは否定はできないということ。

それよりも、記譜法の変化や和声や音型のとらえ方、アーティキュレーション、舞曲のリズム等について述べているものがほとんどないというのには驚きました。少なくとも、バロック、古典派、前期ロマン派までの記譜法というのは、時代だけでなく地域によっても、作曲家によってもかなりばらつきがあったということ、そして当時の記譜法についてある程度勉強しないと楽譜に書かれたそれぞれの記号の持つ意味(または可能性)を理解できないこと。記号の意味がわからなければそもそも楽譜を正しく読んだことにはならない。これは古楽器か現代楽器かという問題などではない。まして、好き嫌い、趣味の問題では到底ない。意味、可能性がわかってその範囲内で趣味が問われる。

当時の響き、演奏など再現できるわけではなく、あくまで現代の聴衆の耳、感性に合わせて演奏するしかないというのはごもっともな意見であり、古楽器奏者もそのことは十分に承知している。ただし、それは、楽譜に書かれた記号の意味を学んだうえでのことというのが前提である。

平安時代の源氏物語や枕草子は、そこまでさかのぼらなくても江戸時代の作品は、現代人には理解できないかといわれれば、現代人は現代人なりに理解して楽しむより他はない。しかしながら、そもそも「をかし」とか「わろし」のように、言葉のもつ意味が現代と違うまたは文法が違う場合には、同じ漢字、ひらがなで書かれていたとしても、現代の言葉の意味で理解してはいけないと言うことは、中学生でも知っている。古語辞典を引きながらでないと読めない場合もある。せめてそのくらいのことはわかった上で、現代人の感覚で理解、楽しんでください。これが、ピリオド奏法をやっているまともな指揮者の考えていることだと思います。

モンテヴェルディは徳川家康と同時代人、バッハは徳川吉宗と同時代人、モーツァルトはは松平定信と同時代人である。かなり昔の曲を我々は演奏している。やはり古語辞典が必要なのでは、と思うのは極自然な流れです。

これらを学んだ上で、なおかつ、楽譜に書かれた記号の意味をあえて別の意味に解釈して演奏することの是非についてはここでは問いませんが、それってよほど自信、確信がないとできないのでは。

それはともかく、たぶん、ピリオド指揮者(エセ、にわかを除き)は、こう思っているでしょう。

「ヴィブラートなんかなくたって、彼らの音楽はこんなにすばらしく、魅力的なんですよ!」

って。やるべきことをやっていれば(でもそれがなかなか技術的にも難しくて、コンクール優勝者クラスでも一朝一夕にはできないことは、トッパンホールでも実証済なのではありますが)、ヴィブラートがなくたっていくらでも表現できる。ボウイングテクニックで表現できることはいくらでもあるということでしょうか。確かに、ヴィブラートがなければこの曲は魅力的じゃないなんて言ったら、作曲家は怒りそうですね。作曲家はヴィブラートを聞かせるために曲を書いているわけではないですから。「ヴィブラートをかけないで」という指揮者の指示は、きっと「ヴィブラートがなくたって、あなた方ほどの実力(技術、音楽性)があれば十分に魅力的な表現ができるでしょう?」という問いかけでもあるのでしょう。演奏家もプライドにかけて「自分たちには無理」なんて口に出せないものだから、「やります」ということになる。すると、ヴィブラートをかけたときにもっと魅力的になる。

ヴィブラートがなくたって十分に魅力的だけど、もっと魅力的にするためにヴィブラートを使うのってありだと思います。他の方法による表現のじゃまにならない限り、あまり本質的なことではないのかなとも思います。

それと、ピリオド奏法にはモダン楽器にバロックボウ、またはクラシカルボウなどという発想には正直「?」です。安物のバロックボウでモダン楽器を鳴らしきるのはかなり大変です。高級モダンボウに比べて魅力的な音色が出るなどという保証はまったくありません。音楽の本質を崩さない範囲内で、モダンボウを使ってボウイングテクニックでカバーする方がよいのでは、と個人的には思っています。私自身はモダンボウでそこまでやるほどの腕がないので、泣く泣くクラシカルボウで妥協しましたが、音色はさびしい限りでした。弓の形云々もあまり本質的なことではないと思います。特に古典派以降の場合には。弦を裸ガットにするというのはそれなりに意味があるのかもしれませんが。

ピリオド奏法って、日本ではまだまだきちっと理解されていないのだなあ、誤解、偏見がまだまだあるのだなあ、と改めて感じて、ちょっと怖くなりました。このシリーズやめようかな・・・。

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コメント

いつも感心しつつ、好奇心を刺激されるので、出来る事ならこのシリーズを続けて下さい。

投稿: ハリー | 2008/03/15 12:11

ハリーさん まいど。

今すぐはネタが思いつきませんが、気が向いたら書きます。とはいっても、一年間更新なしの実績があるので確約はできませんが。

投稿: AH | 2008/03/17 23:24

まいど(笑)ブリュッヘンやヘレヴェッヘを愛聴してますが、情けないかな、ピリオド奏法をよく理解していません。理解する手助けになるのでこのシリーズは非常に助かってますm(__)m

投稿: ハリー | 2008/03/18 19:05

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