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2008/01/15

ピリオド奏法について考える(5)~楽譜

毎年新年にしかやらないこのいい加減な連載ですが、今年も新年になったのと、いわゆるピリオド奏法によるモダンオケでのコンサートを聴いたので改めて書いてみようと思います。

「ピリオド奏法」を実践する指揮者がどのような楽譜を使っているか。実はよく知りません。ただ、ピリオド楽器で演奏する方の中には、いわゆる原典版の楽譜ではなく、直接自筆譜などの資料に当たって研究し、その成果を基に独自の楽譜を作って演奏している方もいます。例えば、鈴木雅明さんなどもそうです。

我々は、バッハといえば新バッハ全集、モーツァルトといえば新モーツァルト全集(いずれもベーレンライター)の楽譜をつい権威のあるものとして、あたかもオリジナルに忠実であるがごとく考えて使ってしまいがちです。ところが、実際に使っている人の話を聞くと、そもそも自筆譜そのものがいい加減な書き方をしていてどうとも読めるため、それを校訂者が「解釈」しているケースや、複数の資料の寄せ集めで楽譜を作るようなケースも見られるなど、必ずしもそのまま使えるわけではないようです。

私も実際にバッハやモーツァルトの自筆譜と原典版を比較してみることがありますが、例えば、アーティキュレーションスラーのつけ方などは、自筆譜はいったいどこからどこまでスラーがついているのかよくわからず、それを校訂者がたぶんこうだろうということで解釈してつけています。しかし、正直演奏する立場からはどうも納得がいかないケースもあります。楔なのか点なのかというのももめるところです。自筆筆でも両者をそれほど厳密に使い分けられているとも限らないですし、単にインクがにじんでしまっているような場合もあります。また、自筆譜で同じテーマでスラーのつけ方が違っていたりついていたりついていなかったり、というところにも解釈が入っている場合があります。

結局、原典版を全面的に鵜呑みにすることも出来ないし、自筆譜だけですべてが事足りるわけでもない。自筆譜等を見ながら演奏者自身が当時の演奏習慣なども踏まえて、どのように解釈するかということに依存せざるをえない。ということになるのではないかと思います。

大事なことは、原典版とて完璧に演奏家の意図を再現しているわけではなく、限界があるのだということと、その原典版の校訂方針なり校訂記録をきちっと理解したうえで使うということだと思います。新バッハ全集にしても新モーツァルト全集にしても校訂記録が出版されているので、それを見るのが良いのではと思っていますが、シロウトにはなかなか難しいですね。

これからも、BCJのコンサートなどで指揮者用譜面台の上に原典版の楽譜を見かけることがあるかもしれませんが、それをそのまま使っているのではないと思っていただいてよいかと思います。

さて、ピリオド楽器を使わない「ピリオド奏法」を標榜する指揮者の方々は、どのような楽譜を使っているか気になるところです。どなたかご存じないですか?

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