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2007/10/11

ロ短調ミサはなぜ「普遍的」か

バッハのロ短調ミサ、先日のBCJの演奏についても、あちこちのブログで感想が書かれています。

その中でも「バッハの音楽、ロ短調ミサの普遍性」というのが話題になっているようです。そこで、ロ短調ミサの普遍性について考えてみたいと思います。

とはいえ、普遍的なのかどうかを議論するというよりは、なぜ普遍的であるといわれるか、ということを考えてみたい。結局、普遍的であるといえばそれも正しいし、そうではないという結論もこれまた正しいと思われるからです。

普遍的であるといわれる理由を思いつくままに書いてみます。

1.ラテン語である

・ラテン語はヨーロッパ文化の共通語のようなもの。

2.プロテスタント(ルター派)なのにカトリックのミサの音楽様式

3.といっても純粋なカトリックの様式とも異なる。独自の様式

4.特定の祝日、記念日のための曲ではない

・特定の目的のために書かれ、ローマ法王やトルコ人の悪口が書いてあるカンタータの歌詞とは異なり、キリスト教会では普遍的な歌詞

5.宗教性を超えた純粋な音楽の技法を極めた作品

・そういう面は否定できないですが、宗教性を否定は出来ない

6.キリスト教徒でない「私」でも感動できる

・これが一番大きな理由かな。キリスト教を信じていなければ理解できない、感動できないという考え方もあるけれど、事実、キリスト教徒でないにもかかわらず感動するには違いないわけだから、やはり宗派に関わらず普遍的なんだ。

といったところでしょうか。

確かに、歌詞が全くわからなくても感動できる。まさに音楽の力。そして、歌詞が扱っている内容の本質、つまりキリスト教が扱っているものの本質に、すべての人間が持っているもの、悩み、苦しみ、絶望、そしてそこから救われたいという気持ち、罪の意識、または幸せと感じていればそのことを感謝する気持ち。「神」がイエス・キリストかどうかは別として、何かにすがりたい、超自然的な力への畏敬、そういったものが含まれているからではないか。つまり、イエス・キリストが神の子であり、人類の罪をあがなうために十字架につけられ、復活し、人類が救われる、というロジックを除けばおおむね普遍的に受け入れ可能なものなのではないか。だからこそ、ラテン語のあの歌詞を音楽にしたものも受け入れられるという点があるのではないか。

以前、BCJがイスラエルでヨハネ受難曲を演奏した際の逸話、ユダヤ人が日本人の演奏するヨハネ受難曲を聞いたあとの反応。これこそまさに普遍性を象徴する出来事。誰が罪を負い、誰が責められているのか。決してユダヤ人だけに向けられたものではない。人類すべてが罪を負い、責められている。あのユダヤ人がヨハネ受難曲をどのように受容できたのか。

一方、歌詞を見る限りはあくまでキリスト教の教義そのものともいえ、さらに音楽も歌詞に密接に関係しているわけだから、やはり、キリスト教徒でなければ感じられないものもあるという考え方もあるでしょう。イエスが十字架につけられ、処刑されることは、無実の人間が殺されることであり、それ自体悲しいこと。誰でも感じられること。でも、「私たちの罪をあがなうために自ら十字架につけられたのだ」ということを信じてこの出来事に接するとどうなのだろう?「神に感謝」という言葉の裏に、この贖罪の出来事への思いがあるのとないのとで、感じ方は異ならないだろうか。

ロ短調ミサの最後の曲、Dona nobis Pacem「われらに平安を与えたまえ」は、Gratias(主に感謝)と同じ音楽が付されていますが(さらに原曲であるカンタータ第29番も神への感謝)、なぜなのか。単なる様式上の問題として片付けていいのか。キリスト教的に見て、その間に必然的な結びつきはないのか。そしてキリスト者にとっては、自明のこととして一切の説明なしに感じることができ、より大きな感銘を受けることができるということはないのか。

バッハがキリスト教社会、ユダヤ人社会以外の社会を知っていたのか。全く異なる背景を持つ仏教や神道の社会、遠い極東の島国の社会を知っていたのか。決して国際派ではなかったバッハ、もしかしたらキリスト教社会以外の社会の存在、そしてそこに住む人々について、全く想像できなかったかもしれない。だから、全人類に向けてこの曲を書いたのかどうかはわからない。しかし、300年の時を経て、キリスト教社会以外でも広く受け入れられ、感動を与えている。感じ方はキリスト者とは異なるかもしれないが、確実にメッセージは受け取っている。

鈴木雅明、BCJはどうなのか。彼自身は敬虔なキリスト者であり(たぶん)、メンバーの中にもキリスト者は少なからずいるよう。一方で、そうではないメンバーも少なくない。彼が目指すものが基本的にキリスト者として、聖書の、そしてバッハのメッセージをとらえ、伝えるということはありうるでしょうし、キリスト者だからこそ感じられることを表現しているのではとも思います。しかし、それだけではない。人類すべてに伝えられる普遍的なメッセージも込められているのではないか。だからこそイスラエルでも受容された。

結局、普遍的ではないが普遍的でもある、という結論にしかならない。ただ、私自身は、キリスト者でなければ感じられないものを尊重したいし、感じられる人は尊敬したい。うらやましいとも思う。非キリスト者は自分たちが感じられるものがすべてだなどと思ってはいけない、謙虚でなければいけないのではないか、と思います。聖書に書かれていることを信じ、感謝できるからこそ感じられること、そういう世界があるんだと思えばいいし、逆にキリスト者は、自分たちが信じる神によって、異教徒(非キリスト者)の心すらも救われているということを受け入れて、神への尊敬の念を強くするということがあってもよいのではないか。

越えられない壁は存在すると思います。でも、お互いを尊重することは出来るとも思う。

そんな私らしからぬことを考えさせたBCJロ短調ミサでした。

(柄にもないこと書くと疲れる・・・)

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