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2007/10/07

BCJロ短調(10/6川崎)&CD(1)

BCJのバッハロ短調ミサネタを書くのももう何度目でしょうか。タイトルを考えるにも苦労します。

それはともかく、10/6に川崎ミューザホールでBCJのバッハ ロ短調ミサを聴いてきました。半年前の藤沢とはほとんどメンバーが同じでした。キャロリン・サンプソンが野々下さんに、ペーター・コーイが浦野さんに(こちらはペーター急病で来日できず)、オケでは、ティンパニがマルテンではなく日本人(久保さん)が、ファゴットが堂坂さんから名手ダニー・ボンド、そして例のホルンはオリヴィエ・ダルベレイからこれまた古楽界の重鎮クロード・モーリーに変わっただけ。とはいってもこの違いが大きかったのですが。

演奏は、基本的には半年前の流れを踏襲していたように思えますが、よりいっそう表現がはっきりしたような気がします。冒頭のKyrieの絞り出すような叫び。テクニカルなことをいえば、楽譜に書かれたアーティキュレーションをよりはっきりと浮かび上がらせ、その意味を明確にしようとしていたように思えます。

雅明さんの指揮台には、物議をかもし賛否が分かれるベーレンライター(スメント版)ではなく、恐らく比較的最近出版されたペータース(C.ヴォルフ版)のものが置いてありました。当然のことながら、それをそのまま使っているというよりは、自筆譜等を見ながら鈴木版とも言える楽譜を作っているはずです。

以前にもこのネタは書いたかもしれませんが、最初のLargoで雅明さんは合唱にもフルートと同様のアーティキュレーションを要求しています。

ペータース版だと

フルートパート

Img_1954a

雅明さんは、スラーが着いているかたまりとついていないかたまりの性格の違いをはっきり出していました。

これに対して最初のテノール

Img_1955a

ペータース版ではスラーがありません。

では自筆総譜を見るとどうなっているか

まずフルートから

Img_1956a

これはペータースと同じ。ところがテノールは

Img_1958a

見にくいですが、上に小さくスラーが書かれていることに気づきます。

次にでてくるアルトも見てみましょう。

Img_1959a

最初だけはフルートと同じようについていますが、そのあとはついていません。

また、この後出てくる他のパートはSop1には同じようについていますが、あとはついていません。これに対してペータースは合唱にはスラーをつけていません。一方器楽には双方ともしつこくつけられています。

これをどのように考えればよいのか。なぜ、ペータースは総譜に書いてあるものを無視したのか。

雅明さんは、このアーティキュレーション、特に下降音形でのスラーに何か特別な意味(修辞法的な意味)を見出したのかもしれません。そうであれば、これは普通歌われているよりもっとはっきりと表現すべきと考えたのでしょうか?

古今東西(とは言っても欧州だけですが)には様々なKyrieが存在してきました。明るい曲、暗い曲、力強い曲、不安な表情の曲など、同じ歌詞でどうしてこんなに違うのだろう。このロ短調ミサ曲においては、「主よ、あわれみたまえ」という訳詞の裏にある、「あわれみを受けなければならない悲惨な状態」に置かれた時の、心からの悲壮な叫びというものを感じます。深き淵からの叫びといってもよいでしょうか。「救いたまえ」に近いのかもしれません。這い上がろうとしては突き落とされ、もはや神に救いを求めることしか残されていない、そんな絶望の中で「Kyrie eleison」と叫ぶ。最初の叫びはそんな風にも聞こえた。そして古楽系にしては珍しい遅めのテンポでLargoをはじめる。絶望感、無力感。このように考えた時に、この下降スラーはこの時代特有の意味、つまり嘆きとかこぼれ落ちる涙とか、そういうものを感じさせる。これは器楽だけに適用されるものではなく、歌であっても同じように適用される。そういうことなのでしょうか?古楽の世界では「楽器は歌のように、歌は楽器のように」「歌は子音を、楽器は母音を」といいますが、「e」をずっと歌っている場合には、もはや歌であっても楽器と同じようにアーティキュレートするのでしょうか。

さて、他にとても微妙なアーティキュレーションではありますが、CredoのVnの弾き方にも驚きました。Vnにも歌と全く同じように歌わせている。これはなかなか真似できるものではありません。こんな表現は初めて聴きました。

長くなってしまったので、明日続けます。

こんな細かいところばかり聴いて、音楽の本質を見失っている、音楽の聴き方として間違っているといわれそうですが、バッハの音楽には、全体像を見ながらこういう細かいところまで注意しなければ意味がわからない、という面もあります。特に演奏する立場では、「信仰心」「感動」と芸術家としての直感力だけでは太刀打ちできないところがある。「信仰心」と「技法」がともなって、初めてBCJのような感動的な演奏が出来る。私はそう思います。

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