Bach Magnificatに思ふ(2)
2.Bachの聖母マリアへの愛
今回の話題は、宗教的には猛烈な論争を引き起こす可能性もありますが、私自身はそういうこととは関係なく、感じたままを書いてみようと思います。
まず、Magnificatというのが何なのかについて簡単に触れておきたいと思います。Magnificatというのは、新約聖書のルカ福音書で、マリアがエリザベトを訪問し、挨拶した時にエリザベトの胎内の子がおどって、エリザベトは精霊に満たされて「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう(新共同訳)」と声高らかに言った。それに対してマリアが主たる神を讃えて言った賛歌のことを言います。そしてその聖書の言葉を音楽にしたのがmagnificatというわけです。バッハのMagnificatもそうです。
なぜ、ルター派教会のカントルであったバッハがラテン語で、しかもマリアの音楽を書いたのか、不思議に思われる方もいらっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。「ルター派ではドイツ語で賛美歌を歌っているし、マリアを大事にしていないのに・・・」という疑問です。
しかし、ルター派の教会でも、ルター以来Magnificatに関する儀式は行われてきたし、ルター派の作曲家によるMagnificatもある。そして、教会暦においてもマリアに関する祝日というのはいくつかある。だから不思議でもなんでもない。
それでも納得できない。「なぜ大事にしていないのに・・・」。
でも、このバッハの曲を聴いて、少なくともバッハがマリアを大事にしていないなんていうことは到底考えられない。第3曲の「身分の低い、この主のはしためにも」などは、美しいことこの上ない。曲が美しいだけじゃなく、心が美しい。大事にしていなくて、こんなにすばらしい曲が果たして書けるでしょうか? このバッハの曲の前ではもはや議論の余地がないんじゃないかって、直感的に思います。
確かに、Magnificatはマリアへの賛歌ではなく、マリアによる神への賛歌です。もちろんバッハの場合もそうです。最終的には、マリアを通じて神を賛美することにほかなりません。でも、へりくだって神を信じたマリアに対する尊敬、憧れ、愛情、というものは十分に感じられます。バッハ自身がマリアのようにありたい、そう考えていたとしても不思議ではありません。やはりバッハにとってもマリアは特別な存在だったに違いありません。
バッハは、このマリアが神を賛美する歌に、聖書の言葉である歌詞の持つ宗教的な意味を様々な形で音楽にしました。たとえば、喜びには喜びの音形。権力のあるものをその座から引きおろし、身分の低いものを高く上げるといった神のみわざに対しては、下降音形と上行音形の組み合わせで表現している。マリアのへりくだりは下降音形。それに対して神が目をかけて幸いになるところは上行。憐れみには憐れみの表現。などなど・・・。
そういう宗教的な意味合いとともに、バッハのマリアに対する尊敬や愛情の気持ち、そして最終的には神の偉大さを讃える気持ちを演奏にあらわしたい。と思っています。
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