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2007/01/20

ピリオド奏法について考える(4)ノンヴィブラートを斬る

今回から、具体的な内容に入っていきます。

まずは「ノンヴィブラートを斬る」です。

ノンヴィブラートといえば、ピリオド奏法の象徴。アーノンクールやノリントンの練習風景でも、「もし可能であればヴィブラートをかけないでいただきたい」というところが必ず映し出されますし、ピリオド奏法の特徴として最初に挙げられるのもノンヴィブラートです。

L.Mozartはもちろん、19世紀後半から20世紀はじめの大提琴奏者でありJ.ヨアヒムの弟子でもあるL.アウアーがなんと1920年ころ(アーノンクールは1929年生まれ。そのころはすでに初期の古楽器復興運動が起きていた)に執筆した「ヴァイオリンの奏法」ですら、まだノンヴィブラートを推奨しているということ、さらにJ.ヨアヒムのバッハ演奏や戦前のオーケストラの録音などを聞くとノンヴィブラートだなどという色々な理由で、ノンヴィブラートが古典は以降の音楽についても推奨されます。

馬場二郎さんが1922年に実際にアウアーとやり取りしながら翻訳した「ヴァイオリンの奏法」からヴィブラートに関する記述をご紹介しましょう。なお、1998年にシンフォニアから新しい翻訳が出版されていますが、1922年当時の日本における受容も合わせて雰囲気を知っていただくために、あえて当時の訳を使わせていただきます。ただし、旧字体は新字体に直します。

四.音の出し方 三.震音(Vibrato)

震音-(中略)-の目的は或る樂句に對して-そして又、その樂句内の単音に對してさへも-もつと印象的な資質を与へるためなのです。此震音はポルタメントと同じやうに、始めは其効果をたかめて、歌うやうな美しい樂句乃至は単音を装飾し美化するためのものでありました。所が、今では不幸にして、歌者も絃楽器の演奏家も(中略)此震音の効果を濫用いたします。従って、そのために最も非芸術的な性質の災禍に巻き込まれてしまうのです。(中略)この震音を濫用する癖のある演奏家乃至は演唱家の中には、それが自分の演奏乃至は演唱にさらによい効果を与えつつあると思ひ込むで居る人達もあれば、又、もっとひどいのになりますと、この震音を用ひる事が自分の演奏-悪い音の出し方や、間違った発声法-のあら隠しには至極便利な発明方案であると信じて居る人達さへもあります。然し、こんな小細工は無用と云ふ度を越えて、遙かに有害です。(中略)

如何なる場合にでも、震音は出来得る丈け謹み深く用ひられるのが最も望ましい事を記憶して居て下さい。この方法を余りに惜しまずに用ひますと、反ってあなた方がそれを用ひる眞の目的を破壊してしまいます。(中略)私は一つの樂句の中で互に連絡を保って居る持続音の場合にでも、決してそれを濫用しないやうに忠告して居ます。

とこんな感じです。途中ではもっと延々とヴィブラートを濫用する人々と其の弊害について述べています。ノンヴィブラートが基本で、ヴィブラートは必要な時にコントロールしてかけるものであって、無意識にすべての音にかかってしまうのは病気、肉体上の欠陥とすら言っています。これは、1760年代にL.Mozartが述べていることとほとんど同じです。我々が1950~60年代に「伝統的だ」と思っていた演奏スタイルについて、そのわずか30年前には真っ向から反対する大提琴家がいたというのです。「伝統」というのがいかにあいまいなものかがおわかりいただけると思います。アーノンクールの子供のころは、まだこんな時代だったのです。

皆さんはこれをお読みになってどのように感じられるでしょうか?この記述をもって、ノンヴィブラートが正しいといいきることはできるでしょうか?

しかし、よく読んでみてください。L.Mozartもアウアーも、ヴィブラートを無意識にすべての音にかける人が少なからずいることを嘆いているのです。つまり、ヴィブラートをすべての音にかけるべきという意見や演奏もかなり存在していたということです。たとえば、ジェミニアーニなどはこれよりはヴィブラートの使い方について積極的です。ヴィブラート積極派の残した文献はあまり紹介されないので、ノンヴィブラート派の意見ばかりがすべてであるような印象を受けますが、そうではありません。では、どちらが一般的で、どちらが「よい趣味」として適切なのでしょうか?

結局、過去のヴィブラートに関する記述だけでは、実際の演奏でヴィブラートをどう処理するかという結論は出ないのです。また、先日のアーノンクールの来日公演を聴いても、ウィーンフィルはもちろん、CMWですら実はかなりヴィブラートを使っています。では彼らはピリオド奏法ではない?

はっきりといえることは、「ノンヴィブラート奏法」というのは厳密に言えば間違いであり、ヴィブラートが無意識にかかってしまうのではダメで、ヴィブラートは音楽的に必要な時に自らが使いたいようにコントロールして使うことができ、音楽的に使いたくない時には使わないことができることが必要(アウアー流に言えば、「あなた方の主人としてでなく、あなた方の従僕として震音を適宜用いる」)だということです。指揮者からここはヴィブラートかけないで、と言われたときにノンヴィブラートで演奏できるということです。ノンヴィブラートを表現の手段として使えるということです。これが簡単そうでいてなかなか難しい。無意識にかかってしまっていたので、慣れないうちは意識してかけないようにすることにかなり神経を使ってしまいます。一方、ヴィブラートであら隠しをしていたところが隠せなくなることで、音程やボウイングによる表現にもより一層注意を払わなければなりません。

それでは、具体的に何がヴィブラートをかけるかノンヴィブラートで行くのかを決めるのでしょうか?他にも色々ありそうです。あとは次回以降。

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コメント

ヴィブラートに関するご高説、勉強になりました。私は70歳台の“青年”ですが、学生時代に弦楽器をやって以来ますますクラシックに傾斜しております。特にヴァイオリンものが好きですが、ヴィブラートは絶対必要と感じています。例えばシューマンのチェロで弾く「白鳥」などをヴィブラートなしで聴くことを想像すると、何と味気ないものになることでしょう。バッハのあるジャンルの曲などはヴィブラートなしでもそれなりに聴けますが、モーツアルト以降ロマン派までの曲には絶対ヴィブラートが必要と感じています。今後ともご高説を続けてください。

投稿: 小嶋重雄 | 2007/01/21 11:53

小嶋重雄さま

ありがとうございます。

これは大アウアー先生の受け売りで、私の説ではありませんので少々恥ずかしいです。

バロック時代も含めて、ヴィブラートをまったく使うべきではないということを主張している人は、私の知る限り誰もいません。一方で「濫用」は、塩や胡椒を入れすぎた料理のようなもので、辛いばかりで味わいがないし、素材のうまみも消してしまうのと同じように、常時均等均質なヴィブラートは音楽のうまみを消してしまいかねないということはアウアーはじめ多くの方々が述べているところです。

さて、私は演歌歌手のヴィブラートがピリオド奏法のヴィブラートにとても似ていると思っています。彼ら、彼女らは、すべての音、言葉に均等均質なヴィブラートをのべつかけるということは決してありません。森進一のヴィブラートは独特ですが、「おふくろさん」と歌う時にヴィブラートはかかっているでしょうか?まさにおふくろさんに語りかけているわけで、美声にヴィブラートをかけなくても心にしみる表現ができるいい例です。初期バロックで使えそうな表現です。美空ひばりの歌い方は、ピリオド奏法における理想的なヴィブラートの使い方に極めて近いのではと思います。ヘンデルとかでも使えそうです。

ヴィブラートの大きさや早さも雰囲気に影響を与えますね。音のはじめはノンヴィブラートで、弓でクレッシェンドしながら徐々にヴィブラートをかけていくようなやり方もよく使われます。逆に言えば、常に同じようなヴィブラートをかけるというのは、弓でクレッシェンド、デクレッシェンドをやらずにいつも同じ音量で同じ音色で弾いているのと同じようなものです。

というように、まずボウイングでの表現があって、その効果をさらに高めるためにヴィブラートを添えるというのが、ピリオド奏法に見られる考え方ですが、演歌歌手に見るように、決して特別なことではありません。世界中の歌のほとんどは(シャンソンもバラードもジャズも)演歌のようなヴィブラートの使い方をしているのではないかと思うのですが、いかがでしょう?

投稿: AH | 2007/01/21 18:10

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