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2007/01/19

ピリオド奏法について考える(3)

第3回目ですが、昨晩インターネット検索していたら、結構立派な説明がすでになされていて、一気に書く気がそがれてしまいました。なんですが、そこは実際に演奏する立場から他の人が言っていないようなことを言えないかと、ない知恵を絞って考えました。とりとめもない内容ではありますが、さてどうなることやら・・・。

ピリオド奏法なんていう言い方はここ数年かと思いますが、それ以前ずいぶん昔から私が説明するのに使っているたとえがあります。

「あなたは、源氏物語を読む時に、古語辞典を使ったり、古文法を学んだりしますよね。それと同じことです。昔の言葉と今の言葉では意味も文法も違うように、昔の楽譜と今の楽譜では意味も文法も違うのです。バッハは、徳川吉宗と同世代なんです!」

源氏物語までさかのぼらなくても、戦前の本を読むと字も仮名遣いも今とは全然違います。たった50年でもこんなに違うのです。ましてバッハは300年近く前、モーツァルトは250年近く前です。元禄とか享保とかそんな時代です。と考えると、今の辞書や文法では役に立たないことは容易にお分かりいただけると思います。

つまり、一見、今と同じように見える楽譜でも、その意味するところはずいぶん違う。ですから、当時使われた意味で楽譜を読まなければ、そもそも作曲家の意図など読み取ることはできないのです。「をかし」「わろし」とはどういうことをいっているのかを研究し、理解するのと同じような作業です。ただ、「をかし」「わろし」を現代の言葉に置き換えて説明しても、当時とはそもそも人間の感覚、価値観が違うので、なかなか正確には言い表せないし、正確にニュアンスを理解できない。音楽についてもそれとまったく同じことが起こります。では、感覚、価値観が違うからといって「をかし」「わろし」を「おかしい」「わるい」といって済ませていいかというとそうではない。昔の楽譜を今の記譜法に基づいて読んでいいということにはならない。現代の感覚、価値観で理解・解釈し、それを表現することと、昔の楽譜を今の記譜法に基づいて読むということはまったく別の話なのです。ところが、つい数年前までの長い間、その両者が混同されていた。そこでまず古楽器復興運動の中から、これらを明確に区別して考えるようになり、それがモダン楽器での演奏まで広がってきた。それがピリオド奏法と呼ばれるものだといえます。

ところが、楽譜に書いてある情報というのは、作曲家が意図していて伝えようとしているもののすべてではありません。特に古典派以前ではその傾向が著しく、当時の「よい趣味」に従った演奏家の良心に任されていたというところがあります。では「よい趣味」とはどんな趣味か、これをめぐってさまざまな論争が繰り広げられます。当時の文献を読んでも、人によっても地域によっても時代によっても「よい趣味」というのは異なります。たとえば、フランスでは長い間ヴァイオリンやチェロは粗野、野蛮な楽器とみなされていましたが、他の国ではそうではなく、それどころか今では高貴な楽器、楽器の王者です。ということで、演奏する曲が作曲された地域、時代の文献から「よい趣味」を導き出し、それを演奏に生かすということになります。

大雑把に言えば、こんなイメージなのですが、なかなかそう一筋縄ではいかない。アーノンクールとクイケンですら、同じ曲を演奏してもなぜか「趣味」が全然違うのです。

ということで、ピリオド奏法をやる上で現場で悩むいろいろなことを、しばらく書いてみようと思います。順不同、気まぐれです。

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