十字架、祈り。BCJロ短調ミサ
今日は、オペラシティでBCJのBachロ短調ミサを自転車で聴いてきました。
正直、「ついにここまで来たか!」という印象。何か一段高いところへ昇ったという感じ。最初にロ短調ミサを取り上げるまでは非常に慎重だった雅明さんも、ここまで来ればマタイやヨハネと同じように自信を持って取り上げられるのであろう。
表現はティンパニの貢献もあって劇的、といってすませてしまうにはあまりに奥が深い。形式こそ限りなくカトリックに近いものの、その精神はあくまでもルター派、そしてバッハそのもの。ミサの歌詞にはそれこそ星の数はあろうかというくらい多くの曲がつけられているが、このロ短調ミサには、ルター派のバッハのあらゆる英知と感性、そして「必然」を感じざるを得ない。そして、鈴木雅明の解釈、BCJの演奏にもまさに「必然」を感じるのである。例えば、ニケア信条の受胎・降誕のところなどは、一般的なクリスマスの祝賀ムード(メサイア第1部はまさにそうであるが)とは完全に一線を画す。つまり、この世に遣わされた時から、すでにこの世の罪を背負って十字架につけられることは決まっており、それゆえ、Crucifixusの予告のように音楽が書かれ、そしてBCJはまさにそのように演奏した。そしてCrucifixusの表現は、まさに「十字架の神学」と呼ばれる精神を具現している。
他には、あまりに複雑なCredo(われは信ず、唯一の神を・・・)であるが、単なる対位法の技法を尽くしたが如き演奏にとどまらず、なぜ、そこに対位法が用いられなければならないのかを感じさせる。つまり、「われ」という一人称単数が世界中で信仰をそれぞれ告白する、そして最後には対位法から和声的な動きになり、「我々は」というまとまりを持つ様が見事に表現されている。それぞれのパートが同じような歌い方をするのではなく、それぞれ微妙な違いを持たせることで「われ」という一人称の存在がより際立つのである。ここまでの表現というのは今まで聞いたことがない。同様に、解説の中で鈴木雅明自身が書いてあるようにロ短調ミサの中で最も印象的な曲といわれる「Confitieor unum・・・」の対位法も同様である。全体的には「十字架」「死」というものの表現が非常に強い印象を与える演奏であり、まさに「十字架の神学」に則った演奏であったといえよう。
そして、最後のDona nobis pacemは、まさにバッハの祈りであり、鈴木雅明の祈りであり、平和を願うすべての人々の祈りである。後の時代には、この曲はしばしば力強いアレグロ楽章になり、時折祈りの要素が感じられるものの、このバッハほど「祈り」が前面に出ているのも珍しいような気がする。しかし、相変わらずだが、この祈りが拍手によって中断させられたことは残念だ。おそらく、祈りであることを感じることができないまま、感激のあまり拍手をしてしまったのだろう。しかし、祈りが終わるまでは演奏は続いているのだ。否、演奏そのものがまさに祈りなのだ。これは「余韻」ではないし、余韻を味わうという類のものでもない。余韻を楽しむために早く拍手をしないというのとは全く違うのだ。4月のマタイではこういうことがないように願いたいものだ。
音楽的にはまったくすばらしいものだったが、完璧な演奏では決してない。一部ソロもベストコンディションではなかったし、合唱はしばしば曲の出だしで乱れた(特にCredo)。しかしそんなことがどうでもよくなるくらい感激し、一緒に祈った、そんなひと時だった。
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コメント
ロ短調ミサですか。私はマタイとヨハネで満腹状態です。もう少しこなれてきたら、聴いてみようと思います。マタイのアリアは大好きで、同様なフレーズのあるバイオリンとチェンバロのためのの4番をぼーっとしながらよく聴きます。
投稿: アーノンクーレ | 2005/12/12 17:38
ロ短調ミサは、受難曲と違ってストーリーがあるわけでもなく、音楽として純粋に感動できるところはあっても、歌詞の意味するところがなかなかわからないところが少々とっつきにくい原因ではないかと思います。マタイのVNつきのアリアとVNソナタは確かに似ていますね。
投稿: AH | 2005/12/16 23:48