あれ?なんか、以前と同じこと書いてる・・・
マタイの特に「ペテロの否認」についていろいろ書いてきたけど、過去の投稿を読むと、なんだか同じことを繰り返しているだけの感じがしてきた。
進歩がないなぁ。
これから書こうとしていたことも、すでに書いていたし。何か新しいネタでも見つけないと。
サタンの音楽でも研究するか。。。
カンタータ第67番の第6曲の合唱部分とか、第81番の第4曲テノールのアリアとか。
マタイの特に「ペテロの否認」についていろいろ書いてきたけど、過去の投稿を読むと、なんだか同じことを繰り返しているだけの感じがしてきた。
進歩がないなぁ。
これから書こうとしていたことも、すでに書いていたし。何か新しいネタでも見つけないと。
サタンの音楽でも研究するか。。。
カンタータ第67番の第6曲の合唱部分とか、第81番の第4曲テノールのアリアとか。
少々脱線するが、ご存じの通り、ヨハネ福音書には、"Da gedachte Petrus an die Worte Jesu und ging hinaus und weinete bitterlich."はなく、ヨハネ受難曲の中で加えられたものである。マタイ、マルコ、ルカの三つの共観福音書にはいずれにもあるのに。共観福音書に合わせたのか、それとも、この言葉が「悔い改め」には欠かせないと考え、どうしても入れたかったのか。あとのアリアやコラールを見ると、マタイ、マルコではなく、ルカから持ってきたような気もする。「主は振り向いてペトロを見つめられた。(新共同訳)」はルカにしかないのだ。
この後のテノールのアリア"Ach, mein Sinn,"は、マタイ受難曲の"Erbarme dich, mein Gott,"とは少々異なり、まだ罪の痛みにさいなまれ、悩み、苦しんでいる状態を表しているような気がする。しかし、続くコラールにおいては、主のまなざしによって「まことの悔い改め」へと向かうことができたことを歌っている。「まことの悔い改め」は神の愛によってもたらされるという考え方に沿っている。さらに信徒たちには、罪の痛みにさいなまれ、悩んだ時には、神の愛を信じて祈りなさい、そうすれば「まことの悔い改め」に至り、心が慰められる、という歌詞のように感じる。
マタイ受難曲は「まことの悔い改め」の手本(ペテロ)と悪い見本(ユダ)を示し、ヨハネ受難曲はどのようにして罪の痛みにさいなまれた状態から「まことの悔い改め」に至る方法を示しているのではないか。
ちなみに、ユダが銀三十を返したことや自殺についてはマタイ福音書にしかない。マタイ福音書では、「悔い改め」という点に関するペテロとユダの比較がより強調されているように思える。
ペテロの否認というのは、4つの福音書のすべてに共通の話であり、このような例は実は非常に珍しい。それだけ重要で、原始キリスト教会の中でも共通の認識があったのではないか。ちなみにピラトによって裁判にかけられることや十字架にかけられることは共通としても、その書きぶりはかなり異なる。イエスの最後の言葉ですら、福音書によって異なるのだ。
銀三十で畑を買って外国人墓地にした、ということについてルターは、「これによって成就したという預言は注意すべきものとは思われない。」といっている。そういえば、マタイ受難曲でもこの場面はRecitativoだけで終わっており、アリアもコラールもなくあっさりと次に話を進めている。単なる偶然かもしれないが、「罪」「悪魔・サタン・蛇」ほどは当時の礼拝で取り上げられることもなかったのかもしれない。
ただ、わざわざ預言者ゼカリアの預言を引用するのに苦心しているから、特別な意義を持っているに違いないとし、銀三十でキリストが売られた結果、血を流し、死にたまわなければならなかったことにより、キリストの罪のない苦しみと死が異邦人をも永遠の命の希望をもって祝福することとなった、という意義は認めている。このことについて、使徒マタイの意図はまさにそこにある(ユダヤ人だけが救いの対象ではない)、という論者もいれば、ユダの銀貨三十のおかげで異邦人にも神の恵みが与えられるとまでユダの功績をたたえる論者もいる。しかし、マタイ受難曲でいわばスルーしていることを考えれば、当時の教会やバッハは、ルターのようにこのようなことはあまり重視していなかったのではないか。
もちろん、ルターも異邦人であるし、讃美歌「いざ来ませ、異邦人の救い主」やこれを基にしたカンタータ第61番、62番というのはあるが、これらにしてもことさら「異邦人」というものを意識した内容ではない。「この世のすべての救い主」くらいの意味と思った方がよいかもしれない。
原始キリスト教会であればともかく、それから1500年もたったドイツで、さらに200年たったバッハ時代のドイツの教会で、キリストが異邦人の主であるということをことさら強調して信じるよう仕向ける必要もなかったということなのかもしれない。これに対して、「罪」の方は人間がどう生き、どう死ぬかの問題ともいえ、その当時でもまだまだ切実な問題であったし、今でもそうであり続けているので、時代を超えて教会が取り扱う必要があったのだろう。そしてバッハのカンタータ、受難曲も、人間の罪を考え、どう生き、どう死ぬかという永遠のテーマを取り扱っているので、聴き手にとっては、意味はよくわからなくてもその心を打つのかもしれない。ただ、演奏するとなると、意味が分からなくても、というわけにはいかないのではあるが。。。
このあとは、バスのアリア"Gebt mir meinen Jesum wieder!"の歌詞について少し考えてみたい。
いまや第三の、そして最後の災難がやって来る。罪が良心をむち打ち続け始めると、悪魔はぐずぐずしていないで、赤い焔が内に猛り狂うまで、その火をかき立て、吹き上げ、救出しようとするすべての企てをむなしくさせる。そのような恐怖と苦悩の中で、ユダは悪魔に促がされ、ついに彼は急いで出て行って、みじめにも首をつった。これこそ、悪魔がその初めから、罪によってもたらそうとしていた目的であった。初めからこの目的を考え、予想できる者なら、おそらく祈ってそれに対する警戒をするであろう。しかし、それは隠されている。(引用終わり)
ここで再び悪魔が登場する。「赤い焔が内に猛り狂うまで、その火をかき立て、吹き上げ、救出しようとするすべての企てをむなしくさせる。」という記述に注目である。カンタータにも、悪魔・サタンが猛り狂う場面、またはサタン・悪魔と神が戦う場面というのはたびたび登場する。ある時は嵐であったり、大波であったり。
「しかし、それは隠されている。」というのは、最初は大したことないと思って「まあこの程度ならいいや」というのが徐々にエスカレートして、やがて事の大きさに気づいて愕然とする、」みたいな感じだろうか。
そして、次にユダの例から何を学ぶべきかについて述べている。
だから、この例をよく研究し、その記憶が決して去って行かないようにしようというのは、これはわたしとあなたがた、そしてわたしたちすべてのものが。罪の正確な認識を得るための助けとなり、罪に対する盾として、わたしたちに役立つものとなるからである。(中略)まず第一に古いアダムをそのように得意がらせ、喜ばせるのが罪の本質であるから、古いアダムはそれを喜び、愛すようになるが、それは罪が目覚めるまでしか続かないからである。それから、第二に、その次に来るものは、悩み、苦労、恐怖、棄権、驚き、おののき、絶望、そして最後に永遠の死である。ユダの例から、わたしたちは罪のこれらの二つの特性を認め、罪の美しい、きれいな、そして、楽しそうな顔つきに欺かれて、指導も、小言も受けようとしない世間と同じように、惑わされないようにしよう。(引用終わり)
カンタータ第54番"Widerstehe doch der Sunde"「罪に抗すべし」の内容そのものではないか!そのほか数多くのカンタータで、罪にどう立ち向かっていくのか、というテーマが取り上げられており、教会の説教の中でもたびたび取り上げられているテーマであったことがうかがい知れる。それがマタイ受難曲の中でユダの例を通じて取り上げられていたとして何の不思議があろう。
悪魔は、彼の罪を大きな、高い山と変えたので、神、神の言、約束、あわれみを彼の目から隠してしまった。そのために、彼は絶望したのである。さて、わたしたちが混乱をその源にさかのぼると、もし、ユダが神の言をむなしいものとしてしまわず、もっと熱心に学び、それに服従していたならば、たとえそのような大きな苦悩の中にあっても、自らを慰めることができたはずであるということを否定できるだろうか。(中略)罪が目覚め、わたしたちを懲らし、悩ます時は、聖なる福音をもって、自分を守り支えなければならない。この福音はわたしたちに、キリストが全世界の罪のために苦しみを受け、あがないをなしたもうたおかたであることを示してくれる。そして、この福音の中に、わたしたちは、全能の創造主であり父でありたもう神が、罪人の死を願わないで、罪人が戻ってきて生きること、つまり自分の罪を認め、悲しんで、主イエスによる罪のゆるしを待望するよう願っておられるのを見る。しかし、ユダはこれらの福音の賜物をもたず、それで絶望したのである。(引用終わり)
いい方は違うものの、繰り返し、ユダが絶望した理由について神の言をないがしろにしたからだと述べている。対してペテロについては、ペテロが主イエスの言を覚えていたから、これが彼を救ったといっている。罪に攻められたら、十字架の出来事を思い出せ。そして自分の罪を認め、悲しんで、主イエスによる罪のゆるしを乞い願え(祈れ)。そうすれば絶望から救われて生きる力が湧いてくる、といったことだろうか。そういう意味で、教訓、反面教師として、受難節の説教でユダのことを取り上げるのは意味のあることなのだろう。マタイ受難曲も、その説教、祈りの一部を構成するわけだが、このことをバッハはどのように音楽にしたのか。それとも、まったく違った見方をしているのか?
結局、謎は深まるばかり。。。
さて、ユダのことはこれくらいにしておいて、投げ捨てられた銀三十がその後どうなったか、についてのルターの考え方についても簡単に触れておきたい。(つづく)
さて、ペテロのほうに話がそれてしまったので、もう少しユダに対する評価を見てみよう。
彼は主がピラトのところへ連れていかれるのを見て、主の生命が危いと恐れ、気の毒になり、今や初めて自分のやったことを認めたのである。さて、罪が目覚めた以上、罪はその本性に従って、たいへんな凶暴性と脅威をもって行動するから、彼はそれに耐えることができなかった。(引用終わり)
これは、「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、(新共同訳)」の解釈である。「今や初めて自分のやったことを認めた。」とは罪を認めたということであり、それをもって「罪が目覚めた」と表現している。ではそれまでは、ユダに罪の意識はなかったのか?ルターはそのことを「罪が眠っている」と表現している。罪を犯してもすぐにはその重荷に気がつかない(気にしない)。だから気をつけなさいということを言っている。
次には
以前には、彼は銀三十を非常に愛したから、それを手に入れるために、良心の呵責なしに、主イエスを裏切って売り渡すことができたが、今では、事態は逆転したのである。(引用終わり)
「良心の呵責なしに」というのは、まさに罪を自覚していないことを意味する。それが逆転したというのだから、今度は良心の呵責にさいなまれるということだ。
もし、彼がいま、その金と全世界の富をもっていたならば、彼はそのすべてを主イエスの生命を救うために投げ出したいと思った。彼をそのように惨めなものにしたのは、金を愛する愛であり、この罪を彼にもたらしたのは、金を持とうという決意であったから、今や、彼は完全に金を憎むものとなり、それを持っていても少しも休息と平安を得ることができず、大祭司の後を追って宮に入り、過ちを犯したことを告白し、彼らがイエスを釈放さえしてくれれば、金を彼らに返すことを申し出た。しかし、祭司長はそうはしなかったので、何とかその金から逃れようと、彼はそれを彼らの足下に投げ捨てた。咲いて、これが罪の特異性である。(引用終わり)
「この世の財宝(金)では心の休息と平安を得ることはできない」というカンタータで何度か登場するテーマがここでも現れる。ルターは、銀三十を返すことについてこのような理解をしているのだ。最初の方を読むと、いかにも反省してよいことを偉そうにしているようにも見えるが(これの何が悪いんだ?と思える)、ルターの評価はそうではないのだ。
ユダは正直に祭司長たちに自分の悩みを打ち明けた。彼は言う、「私は罪を犯しました。私は罪のない血を裏切りました」、と。(中略)「それは、われわれの知ったことか」と彼らはユダに告げた。彼らはすべてのことをユダの責任とし、そのあわれな、おびえている魂を、慰めのことばや、忠告のことばで助けようとは少しもせず、耐えられない重荷を負わせた。(引用終わり)
「私は罪を犯しました。私は罪のない血を裏切りました」はいかにも罪の告白で、悔い改めた証拠にもなりそうなものだが、なにせ言った相手が悪かった。ユダを利用するだけ利用して、ユダにすべての責任を擦り付けて、トカゲのしっぽ切りをしようとしているさらに悪どい連中だ。まさに狡猾な蛇だ。イエスを裏切ったユダが、今度は祭司長たちから裏切られてますます苦しむ、というあわれな構図だ。時代劇でもよく見る光景だ。しかし、これが神に対する告白であったならどうだったのだろうか?(続く)
そのような恐怖と苦悩を感じる時、わたしたちが取るべき態度は、まず第一に、神のみ前に自分を卑しくし、心から罪を告白して、「おお神よ、私は本当に、あわれなみじめな罪人です。あなたがそのお恵みを共にわたしから離れたもうなら、わたしはただ罪を犯すだけです」ということだけであり、次に、神の言と約束にとどまって、「しかし、み子イエス・キリストのために、わたしにあわれみを垂れさせたまえ」と付け加えて言うことである。そして、魂が神の言で自らを慰め、み子のために神があわれみ深くありたもうと心から信頼する時、苦悩は和らぎ、確かに慰めが与えられるのである。だから、本当の完全な悔い改めとは、このことである。すなわち、罪におびやかされ、卑しくされて、信仰により主イエスとその苦難の中に慰めを見いだすことである。(引用終わり)
これが、ルターの言うところの「まことの悔い改め」である。このことと、この後のユダを比較することが役立つのではないか。
大事なことは、「神のみ前で」つまり神に対し、「心からの罪の告白」をし、神を信頼して「憐れんでください」と祈ることだ。
アルトのアリアには、この要素が詰まっている。"Erbarme dich, mein Gott," 神に対して、「憐れんでください」と祈っている。"Herz und Auge weint vor dir bitterlich. " というのは心からの罪の告白である。言葉にはならなくても、涙がそれを表している。
たとえ神の教えに背く(罪を犯す、神から離れる)ことがあっても、再び戻ってきて「神の言と約束にとどまって」神を「信頼」することが大事だといっているように思える。まさに「神への立ち返り」である。
「主イエスとその苦難」は言うまでもなく世の中の罪をあがなうために十字架につけられたことを指しているので、そのことを信じることで慰めを見いだせる、ということで、まさに、マタイ受難曲の目的がここにも表れているようにも思える。
次のコラールは、まさにこのことを信仰告白するコラールであり、悔い改めのコラールであるといえよう。マタイ受難曲全体を壮大な説教と考えた場合には、まさにその中心がこのアリアとコラールに集約されているといっても過言ではない。(続く)
「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、「悔い改めよ・・・」と言われたとき、彼は信ずるものの全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである。」(ルター著作集第1巻)
これは、ルターの「贖宥の効力を明らかにするための討論」(1517年)の冒頭。いわゆる「九十五箇条の論題」であり、一般的には宗教改革の始まりともいうべき文書である。実際には、大騒ぎになったのがこの文書であって、その前から宗教改革的な動きはあったようだが。
いずれにせよ、「悔い改め」というのは、ルターにとって非常に重要なテーマであったことは間違いない(贖宥状の問題ではなく本質的な意味で)。
さて、主の受難の説教に戻る。
まことの悔い改めとはなんであるかを学ぼう。ペテロは、「激しく泣いた」。このようにして、悔い改めは始まる。心からそれを悲しまなければならない。そして、わたしたちが罪を喜んだり、愛したり、また、その中に生きることを止めなければならない。神のみ心に従わず、罪を犯したということが、わたしたちにとって、心にしみる苦痛の種とならなければならない。しかしながら、わたしたちの力はこれを生み出すことはできない。しかし、主がわたしたちを召して悔い改めさせ、み顔をわたしたちに再び照らしたもうのである。(引用終わり)
ここだけでも、「ペテロの否認」からまことの悔い改めとは何かを学ぶことができる、そしてペテロがまことの悔い改めの手本である、というルターの考え方が分かる。大事なことは、悔い改めがペテロの力ではなく、主がペテロを召して悔い改めさせたという点である。
しかし、鶏が鳴き、主がふり返って彼をごらんになると、ペテロは直ちに立ち止まって自分のやったことを考えた。(引用終わり)
アルトのアリアに"Schaue hier."という歌詞がある。マタイ福音書には「主がふり返って彼をごらんになると」などとはどこにも書いていないが、ルカ福音書には「主は振り向いてペトロを見つめられた。(新共同訳)」とあるので、これを持ってきたのだろう。
さてわたしたちの本性と罪の性質によれば、罪は私たちをおびやかし、神の怒りでおどし、ペテロとユダの場合が共にそうだったように、わたしたちの心を苦痛で満たさざるをえない。ユダは自分の罪を認めた時、非常に不安になって、自分でどうすればよいかがわからなかった。しかしペテロの苦しみは、非常なものであったから、仲間から逃れて、溢れ出て尽きないほどに涙を流しながら、悲しみに暮れざるをえなかったのである。(引用終わり)
ここまでのところでは、ペトロとユダは罪に対しては同じだったといっている。バッハのカンタータで「罪」が出てくるときは、概してこういうことを言っている。罪の意識によって良心がさいなまれ、神の怒りに触れたのではないかと恐れ、おののき、不安になり、苦しむ。イエスも自分には罪はないけれど、世界中の人々の罪を引き受けたわけだから、同じように恐れ、おののいた。第一部のテノールのレチ&コラールで"Hier zittert das gequälte Herz."と言われているのはそういうことであろう。
次に、ユダとペテロの違いについて述べた部分を紹介しよう。まずユダから。
ユダは彼の罪の大きさのみを見て絶望し、永遠なるものであっても彼の相談相手や助けにはならないと考えて、このあわれな男は出て行って首をくくったのである。それはなぜであるか。それはただ、神の言を軽んじ、それによって改善されなかったからである。彼が慰めを必要とした時には、み言をもたず、信仰をもって主イエスに立ち返ろうと思わなかったから、彼は全く助けられる余地がなかったのである。(引用終わり)
「罪」「絶望」と「み言」「信仰をもって主に立ち返る」というのがキーワード。「永遠なるもの」といえば、神以外にはない。
続いて、ペテロ。
ペテロもまた激しく泣き、恐れ、彼の罪のためにおののいた。しかし、彼はもっといっしょうけんめいに、主イエスのみことばを聞き、それをよく覚えていた。だから、彼は困ったことになっているのがわかった時、みことばを利用し、キリストが彼に語りたもうていたことを思い起こし、それにしがみつき、それで自分を慰め、神が彼にあわれみ深くあることを望んだのである。そのような惨めさの中で、これこそまことの救いであっって、あわれなユダはこれに欠けていたのである。(中略)彼がキリストを否定したときは、彼の心に信仰の火花があったとは思われない。しかし、のちに彼の良心が目覚め、それによって苦しめられた時、彼の信仰が戻り、彼にこのキリストのみことばを保たせ、絶望に陥ることから、救ったのである。(引用終わり)
「神が彼にあわれみ深くあること望んだのである」と聞けば、アルトのアリア「Erbarme dich, mein Gott,」を思い出す。マタイ福音書には、「イエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。(新共同訳)」としか書いておらず、その意味を解釈して説教するとこうなる、ということだ。まさにアルトのアリアは、福音書に書かれていることの解釈であり説教である。「彼の信仰が戻り」は、「信仰をもって主イエスに立ち返る」ということ。「絶望に陥ることから、救った」というのは、「罪に勝った」「悪魔の誘惑に勝った」ということ。そしてその説教を受けて、信徒たちが信仰告白したのが、悔い改めのコラールともいわれる次のコラール"Bin ich gleich von dir gewichen,"。
ルターは、どちらの罪もしに値するほど重いがユダの罪のほうがより重く、それだけ良心の痛みも激しかったと考えているものの、より本質的な違いは、みことばを信じて神に立ち返ったかどうか、ということを強調している。
このような解釈というのは、インターネットや書籍で調べると、現代においても少なくともルター派を含むプロテスタント教会ではすべてとは言わないもののかなり広まっている考え方といえる。カトリック教会でもこのような解釈がないとは言えないようである。
ルターの説教は、このあと宗教改革の一丁目一番地でもある「まことの悔い改め」とはなにか、という一大テーマに入っていく。
ペテロの否認の場面、ペテロについては、以前にヨハネ受難曲のところで取り上げた。しかし、ユダがその後どうなったかについてヨハネ福音書もヨハネ受難曲も取り上げていない。これはマタイ福音書オリジナルだ。
ユダについては、例のバスのアリア"Gebt mir meinen Jesum wieder!"の妙に明るい感じが、意味不明として多くの人々を悩ましてきた。なぜユダが死んだあとにユダがアリアを歌うのだ?とかいう謎もあった。しかし、マタイ受難曲のアリアというのは、その直前の聖句(福音書の言葉)の説教、解説だという見方からすれば、時系列は全く関係がない。ユダが預言を成就されるために神の命令に従って成し遂げたのだからそれをたたえる歌だとか、バッハ・ピカンダーが「放蕩息子」のたとえを持ち出していることから、ユダは神の愛によって赦され、救われているということを表しており、そのことを歌っているのだ、ということを言っている人もいる。バッハほどの大音楽家が、単純で古臭い勧善懲悪的なユダ評価、ペトロとの比較評価をするとは思えず、時代を先取りしているはずだ、というバッハに対する個人的な崇拝の念から出た結論なのかもしれない。
それでは、バッハ・ピカンダーはこのアリアで一体何を「説教」しようとしていたのか?ユダをどう評価していたのか?
そこで、原点に返って、ルター派教会で何が説教されていたのかを知るために、ルター自身による説教を紐解いてみたいと思う。
ここでも、以前にご紹介した「オリーブ山で ルターの「主の受難の説教」(石橋幸男訳 聖文舎)」から紹介したい。
まず
育ちそこないの子ユダの例が、私たちにまず第一に教えることは、(中略)つまづきの真の原因は悪魔にあり、またみ言を信ぜず、み言によってよくならない不従順な心にあることを認めることである。(中略)彼はこのようにして罪に席を譲ったから、彼のこの世の安心感は、彼をすっかり迷わせ、ついに悪魔が完全に彼を捕え、彼を促して彼の愛する主にして師であるかたを銀三十で裏切るというひどい目的を達成させることとなった。悪魔はユダをこの背信行為に導くのに成功したから、ユダが絶望して、その罪のために首をくくるというさらにひどいことが引き続いて起こったのである。これが悪魔が計画していた目的であった。
ここで「悪魔」が登場する。悪魔はサタンとか蛇とかいう言い方をされることもある。水戸黄門に悪代官が不可欠であると同時に、バッハのカンタータにも悪魔やサタン、蛇が頻繁に登場し、心の弱いものをだましたり脅したりして悪事を働かせる。そして、その都度、イエス・キリストによって退治される。み言は、いわば水戸黄門の印籠(三つ葉葵の紋所)のようなものだ。バッハのカンタータは、我々がいかにサタン、悪魔と戦うかを説教しているものが多い。ということは、当時のルター派教会でも、このテーマがしばしば説教されていたに違いない。そして、ここでも悪魔の働きについて述べている。”
マタイ受難曲には、その予告編がある。第一部の2オケソプラノのアリア の"denn es ist zur Schlange worden. "の部分で、ユダが裏切ることを「蛇になった」と表現している。蛇は、創世記でイブをたぶらかして神から禁じられた果実を食べさせた、あの蛇であり、サタン、悪魔である。ユダは悪魔の巧みな誘惑に負けたのだ、ということをこのソプラノアリアは予告している。
実は、サタンはペテロにも襲い掛かっている。マタイ福音書第16章23節(イエスの死と復活の予告)で、イエスがペテロに向かって「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をするもの。神のことを思わず、人間のことを思っている。(新共同訳)」。「神のことを思わず」というのは、人間を神から引き離す、ということ。それでサタンは一度は引き下がったのに、再びペテロに襲い掛かり、今度はペテロの心の弱さにつけこみ、いわゆる「ペテロの否認」が起きる、そういう役回りをサタン、悪魔は果たしている。
ユダが裏切ったのも、絶望して首をくくったのも、悪魔がユダを神から引き離す計画が成功したということだ。(つづく)
第12 (中略)もし人間が自己の罪を認め、自己自身というものに驚愕した場合には、罪がいつまでもそのような状態で良心の中にとどまっていないように注意しなければならない。でなかったら、絶望以外の何ものもそこからは生じないであろう。ちょうど罪がキリストから流出して認識されたように、人は罪を再びキリストの上に注ぎかえし、良心を罪から解き放たねばならない。それゆえにあなたは、心に罪を宿して自らをさいなみ、苦しめている愚か者のまねはしないよう気をつけるがよい。彼らは善きわざや償罪によってあちこちと回り歩き、(中略)罪から解かれようと努力しているが、それはできない相談である。(引用終わり)
これは、首をつって死んだユダのことを言っているようにも思える。「わたしは罪のない人の血をを売り渡し、罪を犯しました(新共同訳)」というのは、ここでルターが言うところの「自己の罪を認め、自己自身というものに驚愕した」状況であろう。「銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして・・・(新共同訳)」というのは、「善きわざや償罪によってあちこちと歩き回り、罪から解かれようと努力している」様。しかし、結局祭司長たちに「我々の知ったことではない。お前の問題だ。(新共同訳)」と言われてしまう。まさに「それはできない相談」である。
ここに、バスのアリア「私にイエスを返せ」の意味を解くヒントがあるような気がする。
同時に、ルター自身の体験を言っているようにも思える。修道士時代にいろいろ「善きわざ」をやったがダメだった。。。それが宗教改革へのモチベーションになっているのではないか。(中略)のところには、実は、いわゆる贖宥状(免罪符)のことも書かれている(贖宥状の意味をルターが正しく理解していたかどうか、という議論はあるが)。
第13 キリストの傷と苦しみはあなたの罪のためであり、キリストがあなたの罪を負うて償いたもうことをあなたが堅く信じるとき、あなたは自分の罪をあなた自身からキリストの上へと投げかえすことになる。(中略)あなたの良心があなたを責め苦しめることが激しければ激しいほど、あなたはますます大胆にこれらの言葉や、こうしたたぐいの言葉に信頼しなければならない。もしあなたがそうしないで、不遜にもただあなた自身の痛悔や償罪によって、その責め苦をしずめようとするならば、永久にやすらいを得ることはないであろう。そして、結局は絶望に陥る以外には道はない。。。
そろそろこの考察の核心に近づいてきた。まさに、ルターの中心的な考え方であり、バッハのカンタータを貫く考え方がここにみられるような気がする。ペテロもユダも、自分の罪を認め、それぞれの方法で告白した。しかし、ペテロは主の言葉を思い出して自分の罪をキリストの上に投げ返したのに対し、ユダは不遜にも自分自身の痛悔や償罪によって、その責め苦をしずめようとして、結局絶望に陥って首をつった。
では、どうしてユダはペテロのように主の言葉を思い出して自分の罪をキリストに投げ返さなかったのか、投げ返せなかったのか。ユダにもイエスは少なからず言葉をかけているし、すべてを悟ったうえで最後の晩餐にも招いているし、最後は「友よ、しようとしていることをすればよい。(新共同訳)」とまで言い、剣を抜くほかの弟子を止めてもいる。ユダの罪も全て受け止めている。そのことを思い出したらユダは果たして首をつったのだろうか?この謎は、この「考察」だけからは残念ながら読み取れない。いずれにせよ、ユダは「悪の象徴」というより、「反面教師」といった方がよいのではないか。
第14 あなたが信じることができないのであれば、それができるように神に乞い求めるべきである。(中略)それによってあなたは心をはげまされて、第一にまずキリストの受難の日に目をとめなくてもよいようになる(キリストの受難はすでにそのはたらきをなしとげて、あなたを驚愕させたからである)。むしろ、あなたはそこを突き抜けて、あなたに対する愛に満ちたやさしいキリストの心を見るようになる。キリストはそうした愛に迫られて、あなたの良心とあなたの罪の過酷な重荷を負いたもうのである。こうしてあなたの心はキリストに対してなごみ、信仰の信頼が強められる。(中略)キリストはあなたに対する愛をもって神に服従したもうのである。(中略)そのときあなたは、「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった」というキリストについての言葉を理解するであろう。(引用終わり)
第15 こうしてあなたの心がキリストにしっかりと結びついて、責め苦を恐れる心からでなく、愛から罪を憎むようになったら、その後もずっとキリストの受難が、あなたの全生涯を通じて、あなたの模範とされねばならない。(引用終わり)
結局、受難というのは「神の愛」に尽きる、ということになる。自らの罪に驚愕し、恐れおののきつつ、最後は神の愛に気がついて感謝して信仰を強めて魂を平安にして。受難曲というのも本来はそういうものなのだろう。
最終曲の涙は罪なき人が十字架にかけられた同情の涙ではなく、罪を悲しみ、神の愛に触れた涙である。
最後のソリスト4人のRecitativoが、このことを語っている。だからこそそれぞれのパートが語ることを、それぞれ味わい尽くしたいものだ。そして、その内容が第1曲とも対応していることに改めて気づく。
(おわり)
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